座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

パウル・ベッカー『西洋音楽史』

パウル・ベッカー(河上徹太郎訳)『西洋音楽史』(新潮文庫、1955年)

 1924年に行った1回30分×20回のラジオ講義を基にした西洋音楽史ギリシャ音楽から現代(1924年)までの西洋音楽を形式変化の歴史、「メタモルフォーゼ」の歴史として捉えている。私は音楽史についての知識を殆んど持たないのでよくわからないが、進化論的な歴史観を否定し「変化」を強調したところにこの本の意義があるのだろう。

 ベッカーなりの音楽の「観方」を提供することがこの講義の狙いであるという。「音楽形式の変遷に影響を及ぼす諸要素の観察を試みよう。(…)もっと大切なことは、何故此の音楽はこのように出来、あの音楽は全く異なって作られたか、ということを追究することにある。(p. 67)」

 時代精神の現れとして音楽が現れるのであり、音楽の理念や形式が時代によって変遷していったかということが彼にとっては重要である。それゆえにこの小品においては作曲家個人のエピソードや曲目紹介などは一切省かれる。彼によれば対位法に基づくポリフォニー音楽から和声音楽への変化は宗教改革に伴う文化的大変革の精神の賜であり、十八世紀の偉大な理想主義が抽象的な全体音楽を産み出したのだ。

 「この意味から云えば、バッハ、ヘンデルグルックハイドン、モオツァルト、ベートーヴェン等の十八世紀の音楽は、すべてこの同じ土壌の上に生まれたものである(p.160)」と言い切ってしまう歯切れの良さは、個々の才能をあまりにも簡単にまとめてしまっているように感じられる。音楽史として考えると偏狭さを感じてしまうが、音楽を題材にした精神史と考えればなかなか面白い評論と言えるだろう。

 河上徹太郎の訳がなかなかいいので、旧字体に抵抗ない人ならすらすら読めそうだ。

 

中村真一郎『頼山陽とその時代』

中村真一郎頼山陽とその時代』(中央公論社、1971年)

 

 戦後文学の旗手であった中村真一郎は妻の自殺によって酷い神経障害に陥った。神経を病んだ彼にはおだやかな意識統一が必要であり、刺激の少ない江戸漢詩や詩人伝を読むことは格好のリハビリテーションとなった。この読書の過程で彼は頼山陽と出会うこととなる。頼山陽もまた神経症に苦しんだ知識人であり、彼が自らを重ね合わせたのは自然の成り行きであった。

 この深い共感によって頼山陽は「私の内部に生き生きとした姿を現像させて(p.14)」くることになり、彼は山陽について様々な角度から分析していくことになる。

 頼山陽の伝記が書かれる第1部では、資料を基にしながらも想像力が駆使され山陽の姿が魅力的に現れる。頼山陽の人生に付き纏った悪評を引き起こした家出や遊興の理由が神経症ではないかと分析される。矛盾する山陽像をつなぎ合わせる軸としてこの神経症を設定し、想像力によって資料を上手くつなぎ合わせる手際には関心する。

 第2部以降は本人から周りの人々へと主眼が移る。父母、親族、友人、敵対者、弟子と紹介される範囲は極めて大きい。これらの人々との繋がりのなかで、多面的に頼山陽の姿が読者の前に現れる。個人的にはコレクターとしての汚い手段も厭わない頼山陽が好きである。弟子のコレクションを強奪しようとして一騒動起こしたり、お目当てのものをライバルに取られて悪態をついたりする姿には思わず笑ってしまう。

 山陽に関連する人物が次から次へと描かれることによって浮かび上がってくるのは、文化文政の知識人社会そのものである。様々なグループへと分けられた詩人たちは対立していたりつながっていたりと複雑なネットワークを形成している。テキスト量そのものの圧倒的な多さがネットワークの濃密さを体現しているとも言えよう。詩や文が引用されることによって各人の声を直接に知ることができることも作品の魅力を増している。

 平和な時代を生きた彼ら(彼女ら)の詩と生活は、封建的な縦の関係よりも文学グループや自由恋愛と言った横の関係を重視するような極めて自由な香りを伴っており、近代を先取りした(そして明治期には逆に失われた)都会的文化を確かに感じることができる。

 「薩長の「田舎漢」たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度大幅に後退していった (p. 81)」というような江戸後期と明治の比較は東京生まれの中村真一郎らしい。以下のような論評は面白いものだ。
 

 近世の漢詩人たちの感受性が、文化文政の頃にそこまで到達していて、それが次の世代の大沼枕山などによって、殆んどジャン・コクトーやマックス・ジャコブを思わせるところまで洗練されたというのは、江戸の都市文明の爛熟を示すものと言えるだろう。

 そして、日本人の詩的感受性は、明治維新の後、もう一度、島崎藤村などの素朴な浪漫主義にまで後退するのである。

 それは維新によって、江戸(東京)の知識階級が大きく入れかわり、地方の遅れた健全な感覚の青年たちが大挙上京して、新たなインテリゲンチャの層を形成したことの反映だろう。(p. 350)

 
 上記引用のような時折挿入されるフランス近代詩と江戸漢詩との重ね合わせはなかなか感覚が掴みにくいものの、世界文学に連なるジャンルとして江戸漢詩を感じることができる点が秀逸であるように感じる。

 第6部では頼山陽の作品について一つずつ論評を加えている。個人的には『日本楽府』が気になる。歴史上の事件を題材にしながら特殊な詩的空間を幻出させてしまうという奇妙な作品群は一部を読むだけでもなかなか魅力的だった。
 

吉村昭『間宮林蔵』

吉村昭間宮林蔵』(講談社文庫、1987年)[単行本:講談社、1982年]

 

 択捉島シャナ会所へのロシア船襲撃から物語は始まる。僅かな人数のロシア人に怯え武士たちは無様に逃げ出す。しかし、そのなかで間宮林蔵は強く抵抗することを訴え、自分だけは抵抗しようと提案したことを証明するように証書を書くようにさえ要求する。

 迎合しようとしない意志の強さ、惰弱な人間と一緒にされたくないという成り上がり者の矜持がこのエピソードには示されている。この林蔵の性格が過酷な樺太調査を可能にしたと言えよう。

 林蔵は物凄い速度で歩き回り、厳しい寒さにも耐える。過酷な環境、山丹人の暴力、荒れた海などの苦難を乗り越えて樺太が半島ではなく島であることを明らかにする。周りからは不可能と思われていた樺太北部・東韃靼調査を成し遂げていく過程は吉村流リアリズムで見事に描かれる。

 (粗暴な山丹人の描写は迫力があるのだが、小説に好都合な身勝手なイメージとしてよく知らない北方民族を利用しているとも思えてしまう。)

 後半では林蔵の幕府の隠密としての活動が描かれる。間宮林蔵を軸にシーボルト事件やゴロヴニン事件、竹島事件など江戸時代後期の異国関連事件の群像が描き出されていると言ってもよい。

 シーボルト事件では、世間の誤解から密告者としての噂が広まり、白眼視されることになる。必要以上に群れることなく厳密にルールを守る人間は、どうしても世間から疎まれてしまうのかもしれない。鍛錬によって異様なまでに鍛えられた早足は、林蔵の成功を支えていると同時に、世間からの乖離を象徴しているように思えてしまう。

 北から南まで全国を歩き回った林蔵は、両親の死に目に立ち会えなかった。当然妻子もおらず、放置していた故郷の家は朽ち果ててしまう。幸福な家庭生活と孤独な成功が両立しないこの構図は、測図の師匠にあたる伊能忠敬にも共通する点である。この二人の成功と孤独が描かれていることもこの作品に陰影を与えている。
 

鹿野雄一『溺れる魚、空飛ぶ魚、消えゆく魚 モンスーンアジア淡水魚探訪』

鹿野雄一『溺れる魚、空飛ぶ魚、消えゆく魚 モンスーンアジア淡水魚探訪』(共立出版、2018年)

 著者の淡水魚への愛、そして淡水魚の住む環境への愛は非常に強い。魚への態度はまさに現場派といってよく、学会の昼休みには網とバケツを持って魚とりに出かけるほどだとのこと。そんな著者による淡水魚が持つ多様性についての基礎知識の紹介とアジアモンスーンの淡水魚生息現場によるフィールドワークの記録である。
 純淡水魚、通し回遊魚、汽水魚といった淡水魚のなかでの種類分けや、α多様性、β多様性、γ多様性という概念(参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7#%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A9%BA%E9%96%93%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8C%BA%E5%88%86)についての詳細は初めて知った。他環境と比べた時に独自の種を持っていることを示すβ多様性が高いことが淡水魚の特徴であり、特に生活範囲の限定される純淡水魚はこのβ多様性が高いという。
 東南アジアや東アジアなどのアジアモンスーンは淡水魚多様性が高い地域でありであり、淡水魚が人々の暮らしに深く根付いてきた地域である。多様な淡水魚のなかには溺れる魚や空飛ぶ魚、歩く魚などもいるのだ。第2章では東南アジア各地、第3章では東アジア各地でのレポートが展開される。カンボジアやマレーシア、奄美大島白神山地など様々な現場からの生の情報は直接多様な世界を目撃できるような感覚を覚えさせてくれる。
 淡水魚が織りなす極めて魅力的な世界を覗き見ることができる喜びとともに、このような多様性が人間によって徐々に消滅へと向かっていることへの危機感も感じた。詳しさと分かりやすさが上手く両立できているので、事前知識が無くても読むことができる。たまたま手に取った本だが、魚類学や生物多様性への入門書として大変参考になった。
 

東京都写真美術館「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」

 東京都写真美術館で「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」が開催中だ。戦後写真に埋もれがちな戦前写真をしっかり取り上げる展覧会には非常に興味があり、久しぶりに都写美に足を踏み入れることとなった。

 絵画の支配下にあった写真が独自の芸術的位置を獲得するためには、写真自らの性質を理解する必要があった。今回展示されている作品群は、モホイ=ナジやリシツキーなどを参考にしながら新興写真運動の写真家たちが「写真はいかに芸術たりえるか」という問いに答えるなかで生まれた作品と言える。

 写真は肉眼で見るときには意識されない世界を瞬間的に閉じ込める(それゆえに写真を撮るという営為は当然ながら「異化」だ)ことができる。カメラは歪みや を伴う特殊な光学装置である。これらの特性を写真家たちが意識することによって「新興写真」が成立していったと良いだろう。『光画』のイデオローグであった伊奈信男が打ち出したマニフェスト論文「写真に帰れ」については以下のリンクに簡潔にまとめられている。
 (http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%AB%E5%B8%B0%E3%82%8C%E3%80%8D%E4%BC%8A%E5%A5%88%E4%BF%A1%E7%94%B7
 
 木村伊兵衛や野島良三の作品も多く展示されているのだが、やはりそれ以外のそこまで見る機会のない作家の方に注目してしまう。

 飯田幸次郎は初めて知った作家だったが、画面の構成感覚が大変素晴らしく魅入ってしまった。大量の看板と建物だけで構成された「看板風景」は静謐でありながら見ていると心がざわめく。「ラクガキ」のような茶目っ気を感じさせる作品もある。非常に気になる作家だ。最近まで経歴などもわかっていなかったようだが、飯沢耕太郎氏らによる資料の再発見で経歴が判明し写真集も出たようだ。

 中山岩太は名前は知っていたが意識してプリントを直接見る機会は初めてだった。モンタージュを上手く使った幻想的な作品には強く惹きつけられた。いわゆる前衛写真の影響を強く受けていることは間違いないが、モダンと幻想を彷徨うような世界観には独自の詩情が迸っている。絵画では表現できない世界を見せようという強い意志の一貫性が感じられる。

 中山岩太と同じく芦屋で活動していたハナヤ勘兵衛の作品も面白い。「ナンデェ!!」の躍動感などはカメラの特性を利用して作った感じが直截に感じられて楽しい。

 図録はかなり情報充実していたので興味のある方にはオススメできる、おそらく重要資料と言える。しっかり作られている分値段も結構お高いので私は買わず……

 

熊倉功夫『後水尾天皇』

熊倉功夫後水尾天皇』(中公文庫、2010年)
[『後水尾院』(朝日新聞社、1982年)→『後水尾天皇』(岩波同時代ライブラリー、1994年)を加筆修正した文庫版]
 
 織豊政権から江戸幕府確立まで移行期は、成り上がりの可能性を秘めた下剋上の時代から、社会変動の可能性を封じ身分秩序を形成する封建制度への移行期であった。茶の湯において既成の法を乗り越えて秩序を突き崩してきた千利休切腹に追い込まれたことを、著者は「下剋上の精神」凍結の冷酷な宣言だと位置づける。
 成り上がりの芽を摘まれた若者たちは「風俗」のなかに秩序を無視したアンバランスな「かぶき」を見出し、それは公家たちも同様であった。しかし、封建的な主従道徳を無視した「かぶき」の論理は権威を確立したい幕府にとっては危険思想であり徹底的に排除される。幕府をトップとする封建的秩序確立の流れのなかでは、「かぶき」の論理を持つ公家たちも危険な集団であり排除の対象であった。幕府による禁裏への介入の度合いは否が応でも強まっていくことになる。
 この時代精神の過渡期に生まれ即位したのが後水尾天皇である。逆らえぬ運命によって兄を押しのけ父に疎まれる形での即位となってしまった後水尾天皇の政治人生は恵まれたものではない。後水尾天皇の時代には禁裏への介入はあからさまなものであり、「禁中並公家諸法度」においては明確に現れ、徳川秀忠の娘である和子が入内し後水尾天皇の后になることによって幕府の権力構造に完全に取り込まれる。公家に許されるのは「学問稽古」だけとなり、天皇の役割は「芸能」のみとなる。紫衣事件を筆頭とする幕府による禁裏への露骨な介入と健康悪化は後水尾天皇を追い詰め、和子との娘である女一宮に譲位する。上皇となった後水尾院は仙洞御所を造営し、そこで寛永文化の花を開かせることになる。
 この時代においては公家文化、武家文化、町衆文化は隔絶したものではなかった。「寛永のサロン」の章では板倉屋敷と鹿苑寺が取り上げられる。京都所司代である板倉家の屋敷には公家の知識人である西洞院時慶、貞門派俳諧の開祖松永貞徳、貞徳の息子であり儒家の松永尺五、当時最大の文化人であった本阿弥光悦、『醒睡笑』の著者安楽庵策伝といった面々が集まっていた。後水尾院の近縁である鳳林和尚を中心にした鹿苑寺のサロンでは茶の湯が開かれ、そこには金森宗和、千宗旦小堀遠州といった一流の茶人が集まった。牢人出身の画家山本友我も鹿苑寺サロンの一員であった。寛永文化を支えたサロンには様々な身分の多種多様な人物が含まれたいたのだ。
 これらのサロンが鎖状に連なった輪の中心に後水尾院がいたというのが著者の考えである。後水尾院が開催する芸能の寄り合いには殿上人以外の地下も参加していた。後水尾院が池坊専好に主導させて行なわれた「寛永大立花」では、堂上も地下も僧侶も一緒になって立花の出来を競い合ったという。身分秩序が完全に確立するとともに、このようなサロンの土壌が失われ街と禁裏の間は完全に閉じることになる。身分秩序が閉じきってしまう直前に花開いたのが寛永文化と言っていいのかもしれない。
 「学問する上皇」の章では後水尾院の学問についても語られる。伝統を強く意識していた後水尾院は『当時年中行事』を著し、儀礼の復興を行った。また、後水尾院は詩歌に秀でていた。筆者は後水尾院が和歌において「道」ということばを多用していることに注目し、後水尾院にとっては「うたのみち」、思想内容よりも和歌としての表現が重要であったのではないかと指摘している。伝統的な儀礼や「うたのみち」に則ることが最早幕府には逆らえない後水尾院にとっての反骨心の現れだったのかもしれない。
 晩年の後水尾院が完成させたのが修学院離宮である。筆者は離宮のなかに数寄草庵の系譜と霊域のイメージを見出す。後水尾院には、自らの作った嵯峨院で晩年を過ごした嵯峨天皇への追慕があり、それゆえに修学院離宮の造成に執着したのだという。修学院離宮で静かに暮し長寿をまっとうするわけだが、自分の親類や友人にどんどん先立たれていく後水尾院の寂寥の感じを思うと少しばかり悲しくなる。
 単なる文化人としての後水尾院ではなく、葛藤と悲しみを背負いながら様々な人々と文化を作り上げた人物としての後水尾院が浮かび上がってくる大変面白い一冊であった。

東京ステーションギャラリー「くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質」


 北海道から帰宅する飛行機が大幅に遅れ、急遽東京駅近くで一夜を明かすことになった。せっかくなので翌朝に「くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質」開催中の東京ステーションギャラリーへと向かった。
 この展覧会は、今まで隈が手がけてきた様々なプロジェクトを物質に着目して概観する。10種類の素材(竹、木、紙、土、石、金属、ガラス、瓦、樹脂、膜・繊維)ごとにセクションを分け、模型や実物大部品を展示している。
 また、隈の「物質への挑戦」の全体像は樹形図として可視化されている。この樹形図は自らのプロジェクトを素材を10種類(前掲)、操作を5種類(粒子化、編む、支え合う、包む、積む)、幾何学を3種類(格子、多角形、円弧・螺旋)に分類し、年代順にプロットしたものだ。隈が持ち続けている素材への拘りがわかりやすく鑑賞者に示されている。
 素材へのアプローチは極めてわかりやすく、我々が日頃感じている感覚を強調するものである。例えば、竹のしなやかさ、石の持つ歴史、樹脂の軽さなどの特性が五感に訴えかける形で強調される。どこか似通ってくるデザインには迸るセンスのようなものは感じないのだが、様々な素材を上手く処理している隈研吾の器用さには舌を巻く。

 

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 場所や用途を問わずに多くのプロジェクトが様々な素材を用いて作られる。この手際の良さゆえに多くのプロジェクトが彼に舞い込んでくるのだろう。
 セクション別に分けられた展覧会を見ていくうちに浮かび上がるのは、10の素材ではなくむしろそのなかには含まれていないコンクリートの存在だ。
 「20世紀はコンクリートのせいで会話は固くなり、人間の表情もずいぶん暗くなった」とこの展覧会の開催に当たり、隈は語ったという。あまりにも直截的なコンクリート批判には苦笑せざるを得ないが、このコンクリートへの批判精神は彼の建築の基層となっているように思える。香り、温かみ、軽さ、しなやかさ、柔らかさ、歴史といった特性はコンクリートに欠如した特性として隈には捉えられており、コンクリート主体の時代が失った精神を建築において提示しているとも言えるかもしれない。コンクリート建築が高度成長の時代精神であるとすれば、隈によるコンクリートへの反発は(良し悪しは抜きにして)新たな時代の精神を捉えていると言える。隈研吾が機を見るに敏であり器用であるという簡単なようで難しい長所を持っていることを再認識すると、「隈研吾フィーバー」は全く不思議ではないのだ。