座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

鹿野雄一『溺れる魚、空飛ぶ魚、消えゆく魚 モンスーンアジア淡水魚探訪』

鹿野雄一『溺れる魚、空飛ぶ魚、消えゆく魚 モンスーンアジア淡水魚探訪』(共立出版、2018年)

 著者の淡水魚への愛、そして淡水魚の住む環境への愛は非常に強い。魚への態度はまさに現場派といってよく、学会の昼休みには網とバケツを持って魚とりに出かけるほどだとのこと。そんな著者による淡水魚が持つ多様性についての基礎知識の紹介とアジアモンスーンの淡水魚生息現場によるフィールドワークの記録である。
 純淡水魚、通し回遊魚、汽水魚といった淡水魚のなかでの種類分けや、α多様性、β多様性、γ多様性という概念(参照:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7#%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%81%99%E3%82%8B%E7%A9%BA%E9%96%93%E9%9A%8E%E5%B1%A4%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8C%BA%E5%88%86)についての詳細は初めて知った。他環境と比べた時に独自の種を持っていることを示すβ多様性が高いことが淡水魚の特徴であり、特に生活範囲の限定される純淡水魚はこのβ多様性が高いという。
 東南アジアや東アジアなどのアジアモンスーンは淡水魚多様性が高い地域でありであり、淡水魚が人々の暮らしに深く根付いてきた地域である。多様な淡水魚のなかには溺れる魚や空飛ぶ魚、歩く魚などもいるのだ。第2章では東南アジア各地、第3章では東アジア各地でのレポートが展開される。カンボジアやマレーシア、奄美大島白神山地など様々な現場からの生の情報は直接多様な世界を目撃できるような感覚を覚えさせてくれる。
 淡水魚が織りなす極めて魅力的な世界を覗き見ることができる喜びとともに、このような多様性が人間によって徐々に消滅へと向かっていることへの危機感も感じた。詳しさと分かりやすさが上手く両立できているので、事前知識が無くても読むことができる。たまたま手に取った本だが、魚類学や生物多様性への入門書として大変参考になった。
 

東京都写真美術館「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」

 東京都写真美術館で「『光画』と新興写真 モダニズムの日本」が開催中だ。戦後写真に埋もれがちな戦前写真をしっかり取り上げる展覧会には非常に興味があり、久しぶりに都写美に足を踏み入れることとなった。

 絵画の支配下にあった写真が独自の芸術的位置を獲得するためには、写真自らの性質を理解する必要があった。今回展示されている作品群は、モホイ=ナジやリシツキーなどを参考にしながら新興写真運動の写真家たちが「写真はいかに芸術たりえるか」という問いに答えるなかで生まれた作品と言える。

 写真は肉眼で見るときには意識されない世界を瞬間的に閉じ込める(それゆえに写真を撮るという営為は当然ながら「異化」だ)ことができる。カメラは歪みや を伴う特殊な光学装置である。これらの特性を写真家たちが意識することによって「新興写真」が成立していったと良いだろう。『光画』のイデオローグであった伊奈信男が打ち出したマニフェスト論文「写真に帰れ」については以下のリンクに簡潔にまとめられている。
 (http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8C%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%81%AB%E5%B8%B0%E3%82%8C%E3%80%8D%E4%BC%8A%E5%A5%88%E4%BF%A1%E7%94%B7
 
 木村伊兵衛や野島良三の作品も多く展示されているのだが、やはりそれ以外のそこまで見る機会のない作家の方に注目してしまう。

 飯田幸次郎は初めて知った作家だったが、画面の構成感覚が大変素晴らしく魅入ってしまった。大量の看板と建物だけで構成された「看板風景」は静謐でありながら見ていると心がざわめく。「ラクガキ」のような茶目っ気を感じさせる作品もある。非常に気になる作家だ。最近まで経歴などもわかっていなかったようだが、飯沢耕太郎氏らによる資料の再発見で経歴が判明し写真集も出たようだ。

 中山岩太は名前は知っていたが意識してプリントを直接見る機会は初めてだった。モンタージュを上手く使った幻想的な作品には強く惹きつけられた。いわゆる前衛写真の影響を強く受けていることは間違いないが、モダンと幻想を彷徨うような世界観には独自の詩情が迸っている。絵画では表現できない世界を見せようという強い意志の一貫性が感じられる。

 中山岩太と同じく芦屋で活動していたハナヤ勘兵衛の作品も面白い。「ナンデェ!!」の躍動感などはカメラの特性を利用して作った感じが直截に感じられて楽しい。

 図録はかなり情報充実していたので興味のある方にはオススメできる、おそらく重要資料と言える。しっかり作られている分値段も結構お高いので私は買わず……

 

熊倉功夫『後水尾天皇』

熊倉功夫後水尾天皇』(中公文庫、2010年)
[『後水尾院』(朝日新聞社、1982年)→『後水尾天皇』(岩波同時代ライブラリー、1994年)を加筆修正した文庫版]
 
 織豊政権から江戸幕府確立まで移行期は、成り上がりの可能性を秘めた下剋上の時代から、社会変動の可能性を封じ身分秩序を形成する封建制度への移行期であった。茶の湯において既成の法を乗り越えて秩序を突き崩してきた千利休切腹に追い込まれたことを、著者は「下剋上の精神」凍結の冷酷な宣言だと位置づける。
 成り上がりの芽を摘まれた若者たちは「風俗」のなかに秩序を無視したアンバランスな「かぶき」を見出し、それは公家たちも同様であった。しかし、封建的な主従道徳を無視した「かぶき」の論理は権威を確立したい幕府にとっては危険思想であり徹底的に排除される。幕府をトップとする封建的秩序確立の流れのなかでは、「かぶき」の論理を持つ公家たちも危険な集団であり排除の対象であった。幕府による禁裏への介入の度合いは否が応でも強まっていくことになる。
 この時代精神の過渡期に生まれ即位したのが後水尾天皇である。逆らえぬ運命によって兄を押しのけ父に疎まれる形での即位となってしまった後水尾天皇の政治人生は恵まれたものではない。後水尾天皇の時代には禁裏への介入はあからさまなものであり、「禁中並公家諸法度」においては明確に現れ、徳川秀忠の娘である和子が入内し後水尾天皇の后になることによって幕府の権力構造に完全に取り込まれる。公家に許されるのは「学問稽古」だけとなり、天皇の役割は「芸能」のみとなる。紫衣事件を筆頭とする幕府による禁裏への露骨な介入と健康悪化は後水尾天皇を追い詰め、和子との娘である女一宮に譲位する。上皇となった後水尾院は仙洞御所を造営し、そこで寛永文化の花を開かせることになる。
 この時代においては公家文化、武家文化、町衆文化は隔絶したものではなかった。「寛永のサロン」の章では板倉屋敷と鹿苑寺が取り上げられる。京都所司代である板倉家の屋敷には公家の知識人である西洞院時慶、貞門派俳諧の開祖松永貞徳、貞徳の息子であり儒家の松永尺五、当時最大の文化人であった本阿弥光悦、『醒睡笑』の著者安楽庵策伝といった面々が集まっていた。後水尾院の近縁である鳳林和尚を中心にした鹿苑寺のサロンでは茶の湯が開かれ、そこには金森宗和、千宗旦小堀遠州といった一流の茶人が集まった。牢人出身の画家山本友我も鹿苑寺サロンの一員であった。寛永文化を支えたサロンには様々な身分の多種多様な人物が含まれたいたのだ。
 これらのサロンが鎖状に連なった輪の中心に後水尾院がいたというのが著者の考えである。後水尾院が開催する芸能の寄り合いには殿上人以外の地下も参加していた。後水尾院が池坊専好に主導させて行なわれた「寛永大立花」では、堂上も地下も僧侶も一緒になって立花の出来を競い合ったという。身分秩序が完全に確立するとともに、このようなサロンの土壌が失われ街と禁裏の間は完全に閉じることになる。身分秩序が閉じきってしまう直前に花開いたのが寛永文化と言っていいのかもしれない。
 「学問する上皇」の章では後水尾院の学問についても語られる。伝統を強く意識していた後水尾院は『当時年中行事』を著し、儀礼の復興を行った。また、後水尾院は詩歌に秀でていた。筆者は後水尾院が和歌において「道」ということばを多用していることに注目し、後水尾院にとっては「うたのみち」、思想内容よりも和歌としての表現が重要であったのではないかと指摘している。伝統的な儀礼や「うたのみち」に則ることが最早幕府には逆らえない後水尾院にとっての反骨心の現れだったのかもしれない。
 晩年の後水尾院が完成させたのが修学院離宮である。筆者は離宮のなかに数寄草庵の系譜と霊域のイメージを見出す。後水尾院には、自らの作った嵯峨院で晩年を過ごした嵯峨天皇への追慕があり、それゆえに修学院離宮の造成に執着したのだという。修学院離宮で静かに暮し長寿をまっとうするわけだが、自分の親類や友人にどんどん先立たれていく後水尾院の寂寥の感じを思うと少しばかり悲しくなる。
 単なる文化人としての後水尾院ではなく、葛藤と悲しみを背負いながら様々な人々と文化を作り上げた人物としての後水尾院が浮かび上がってくる大変面白い一冊であった。

東京ステーションギャラリー「くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質」


 北海道から帰宅する飛行機が大幅に遅れ、急遽東京駅近くで一夜を明かすことになった。せっかくなので翌朝に「くまのもの 隈研吾とささやく物質、かたる物質」開催中の東京ステーションギャラリーへと向かった。
 この展覧会は、今まで隈が手がけてきた様々なプロジェクトを物質に着目して概観する。10種類の素材(竹、木、紙、土、石、金属、ガラス、瓦、樹脂、膜・繊維)ごとにセクションを分け、模型や実物大部品を展示している。
 また、隈の「物質への挑戦」の全体像は樹形図として可視化されている。この樹形図は自らのプロジェクトを素材を10種類(前掲)、操作を5種類(粒子化、編む、支え合う、包む、積む)、幾何学を3種類(格子、多角形、円弧・螺旋)に分類し、年代順にプロットしたものだ。隈が持ち続けている素材への拘りがわかりやすく鑑賞者に示されている。
 素材へのアプローチは極めてわかりやすく、我々が日頃感じている感覚を強調するものである。例えば、竹のしなやかさ、石の持つ歴史、樹脂の軽さなどの特性が五感に訴えかける形で強調される。どこか似通ってくるデザインには迸るセンスのようなものは感じないのだが、様々な素材を上手く処理している隈研吾の器用さには舌を巻く。

 

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 場所や用途を問わずに多くのプロジェクトが様々な素材を用いて作られる。この手際の良さゆえに多くのプロジェクトが彼に舞い込んでくるのだろう。
 セクション別に分けられた展覧会を見ていくうちに浮かび上がるのは、10の素材ではなくむしろそのなかには含まれていないコンクリートの存在だ。
 「20世紀はコンクリートのせいで会話は固くなり、人間の表情もずいぶん暗くなった」とこの展覧会の開催に当たり、隈は語ったという。あまりにも直截的なコンクリート批判には苦笑せざるを得ないが、このコンクリートへの批判精神は彼の建築の基層となっているように思える。香り、温かみ、軽さ、しなやかさ、柔らかさ、歴史といった特性はコンクリートに欠如した特性として隈には捉えられており、コンクリート主体の時代が失った精神を建築において提示しているとも言えるかもしれない。コンクリート建築が高度成長の時代精神であるとすれば、隈によるコンクリートへの反発は(良し悪しは抜きにして)新たな時代の精神を捉えていると言える。隈研吾が機を見るに敏であり器用であるという簡単なようで難しい長所を持っていることを再認識すると、「隈研吾フィーバー」は全く不思議ではないのだ。

萩原朔太郎『詩の原理』

萩原朔太郎『詩の原理』(新潮文庫、1954年 青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/2843_26253.html


 詩とはなにかという疑問に真っ向から対峙して普遍的な答えを導こうという萩原朔太郎の詩論。内容論と形式論に分けて、明晰な言葉で詩を体系的に論じようという朔太郎の真摯な姿勢には敬服せざるをえない。朔太郎なりの詩的精神への深い思考、そして「新たな国語」創造への覚悟が現れている。西洋文化を表層だけ受け取らざるをえなかった近代日本人が苦しんだ病を乗り越えようとする闘いがありありとわかる。

 「現在しないものへの憧憬」という彼なりの詩的精神の定義には、詩論としての正確さを抜きにして共感を覚える。この詩論全体も、現在しない「新日本の詩」への憧憬を温熱される心情によって表出していることは言うまでもない。

 詩という概念を明晰に成立させるために論に現れる何重もの二項対立は、議論をわかりやすくすると同時に違和感も覚えさせる。二つの陣営に世界を分けていく過程は見事だが、そこまで割り切れるものなのか。論が図式的になっていることは朔太郎も自覚的だったのだろう。自由詩の行くすえを転換させるためには、力技を使ってでも詩人としての立ち位置を明確にすることが必要だったのかもしれない。

 以下に自分の便宜をかねて要約を載せておく。

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 朔太郎曰く、詩とは「詩的精神」が「詩の表現」を取ったものである。では、「詩的精神」とはなにか? まず、彼は芸術を主観的態度の芸術と客観的態度の芸術という二つの原則によって分ける。主観主義と客観主義は「現存(ザイン)するもの」への態度が明らかに異なるようだ。

要するに客観主義は、この現実する世界に於て、すべての「現存(ザイン)するもの」を認め、そこに生活の意義と満足とを見出みいだそうとするところの、レアリスチックな現実的人生観に立脚している。客観主義の哲学は、それ自ら現実主義レアリズムに外ならない。これに反して主観主義は、現実する世界に不満し、すべての「現存(ザイン)しないもの」を欲情する。

 朔太郎は後者の主観主義こそが詩的精神であり、主観の夢を呼び起こすものが「詩」であると考える。

かく空想や聯想の自由を有して、主観の夢を呼び起すすべてのものは、本質に於て皆「詩」と考えられる。反対に空想の自由がなく、夢が感じられないすべてのものは、本質に於ての散文であり、プロゼックのものと考えられる。[...]

 夢とは何だろうか? 夢とは「現在(ザイン)しないもの」へのあこがれであり、理智の因果によって法則されない、自由な世界への飛翔である。故に夢の世界は悟性の先験的範疇に属してないで、それとはちがった自由の理法、即ち「感性の意味」に属している。そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬である。されば此処ここに至って、始めて詩の何物たるかが分明して来た。詩とは何ぞや? 詩とは実に主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である。もし生活にイデヤを有し、かつ感情に於て世界を見れば、何物にもあれ、詩を感じさせない対象は一もない。逆にまた、かかる主観的精神に触れてくるすべてのものは、何物にもあれ、それ自体に於ての詩である。

 しかし、「現在(ザイン)しないものへの憧憬」を語れば、全て詩であるとするとどこまでも詩というジャンルが拡がっていってしまう。それゆえに「詩の表現」についての形式論も重要になってくる。
 詩の形式を「韻文」と規定することによって起きる様々な齟齬を踏まえ、彼は詩を「音律を本位とする表現」であるとする。

 そこで表現の形式には、音楽があり、美術があり、舞踊があり、演劇があり、文学があり、実に種々雑多であるけれども、これを本質に於ける態度の上から観察すれば、あらゆる一切の表現は、所詮しょせんして二つの様式にしかすぎないのである。即ちその一は「描写」であって、美術や小説がこれに属する。描写とは、物の「真実の像(すがた)」を写そうとする表現であり、対象への観照を主眼とするところの、知性の意味の表現である。然るに或る他の芸術、例えば音楽や、詩歌や、舞踊等は、物の「真実の像」を写そうとするのでなく、主として感情の意味を語ろうとする表現である故に、前のものとは根本的に差別される。この表現は「描写」でない。それは感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば「情象」である。[...]
 詩とは何だろうか? 詩の表現に於ける定義は如何いかん? 詩は音楽と同じく、実に情象する芸術である。詩には「描写」ということは全くない。たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。即ち表現についてこれを言えば、詩とは主観に於ける意味を、言語の節ふしや、アクセントや、語感や、語情やの中に融して、具体的に表象しようとする芸術である。

 ここに至って「詩の表現」について彼の定義が示されることになる。彼にとって詩とは「現在(ザイン)しないもの」に対する感情を表象するところにあり、詩において重要なのは主観の感情によって温熱される心情(ハート)だと何度も強調している。

 当然、感情についても彼は論じている。いわゆる「感情」には女性的な「情緒」と男性的な「権力感情」という二つの別趣のものが包括されており、全ての詩はこの二つの感情のいずれかを発想していると彼は論じる。優雅で涙もろく女性的な「情緒」は抒情詩となり、気概に満ち高翔感的な興奮を伴う「権力感情」は叙事詩となるという。抒情詩は平民的なロマンチシズムを持つ(詩のなかの)主観派、叙事詩は貴族的なクラシズムを持つ(詩のなかの)客観派と言えるだろう。文芸の歴史はこの二つの対流と闘争であるという。
 では、日本における詩の代表的な形式である和歌と俳句はどうか? 彼は和歌はロマンティックで感傷的であり、俳句はレアリスティックで静観的であると分析する。俳句は世界に類を見ないほどレアリスティックの韻文でありながら、真の俳句は同時に当然ながらそこに「情象」を読み込んでいる。この枯淡趣味の詩はあまりに日本的特殊なものであるがゆえに、世界的に進出し得ない。和歌と俳句の二項対立を西洋の抒情詩と叙事詩の二項対立に当てはめて考えると、俳句は明らかに叙事詩ではない。
 このような西洋と日本の違いは日本語の平板さから生じたものだと彼は考えている。日本における詩の歴史は自由詩にはじまり中国との交通が開けてから七五音の定形律を取るに至ったと歴史を整理した彼は、この音の反復のみで構成される定形律の非形式的な自由主義を顧みて以下のように日本における詩の事情を語る。

かく日本の詩は、内容上にも形式上にも、西洋と全く反対なる、背中合せの特色によって発展して来た。そしてこの事情は、全く我々の国語に於ける、特殊な性質にもとづくのである。元来、言語に於ける感情的な表出は、主として語勢の強弱、はずみ、音調等のものによるのであって、アクセントと平仄とが、その主なる要素になっている。然るに日本の国語には、この肝腎かんじんなアクセントと平仄が殆どないため、音律的には極めて平板単調の言語にできている。[...]
 しかしこうした没音律の日本語にも、その平板的な調子の中に、或る種のユニックな美があるので、これが和歌等のものに於ける、優美な大和言葉の「調べ」になっている。けれどもこの特殊の美は、極めてなだらかな女性的な美である故ゆえに、或る種の抒情詩の表現には適するけれども、断じて叙事詩の表現には適合しない。叙事詩は男性的なものであるから、極めて強い語勢をもった、音律のきびきびした音律でなければ、到底表現が不可能である。アクセントもなく平仄もない、女性的優美の大和言葉は、いかにしても叙事詩の発想には適しない。これ実に日本に於て、昔から真の叙事詩が無い所以である。


 従来の日本語詩は特殊な美を表現できる反面、単調な語数律に基づくゆえに三十一文字以上に七五調を続けると単律のだるさを持つこととなる。では、日本語における長い詩を欲するにはどうすればよいか。彼はその答えを散文律の自由詩に求めるしかないという。
 では現状の自由詩が音律美を持つのかという問いに対し彼は自戒を込めつつ否と答える。いきなり言文一致によって芸術の世界に引きずり出された口語が粗野であることは仕方がなく詩の使用に耐えうる音律や美を持たないと彼は嘆く。
 しかし、音律美を放棄し言語の連想性に頼った「印象的散文」に靡くことを彼は強く非難する。いかに現状の口語に音律美が欠けていようとも、詩人たちは犠牲者となってこの口語に立ち向かわねばならないと彼は宣言する。「新しい国語」を創造することで詩も小説もありうるのであり、自由詩は「新しき散文」として肯定しうると彼は考える。
 最後に島国日本か? 世界日本か?と問う彼は、世界日本になるために俳句を捨てて叙事詩を取らねばならないと考える。つまり、日本の詩を発展させるには叙事詩的精神と抒情詩的精神の対立という西洋的構図が必要だという考えである。西洋文明そのものの本質と叙事詩的な精神を理解するためには、今までの価値観を廃棄し「文明の軌道を換え」て「先ず人間として、文明情操の根柢を作っておく」ことが必要なのだ。伝統の和歌や俳句ではなく自由詩を書くということは、美の完成ではなく創造なのである。
 
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瀬川拓郎『アイヌ学入門』

瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015) 

 

 アイヌ縄文人という認識を持っている人間は少なくないだろう。当然、完全な等号で結ぶことはできないとわかっていても、縄文から変わることなく太古の生活を守り続けてきた民族としてアイヌを捉えている人々は決して少なくなく、生き残った古代人としてのアイヌ像は未だに社会に残っている。私もアイヌに対しての認識は(正直言って自分のなかで形にすることもほとんど無かったのだが)生き残った古代人というイメージに近いものであった。
 著者は縄文文化から変わることがなかった民族としてアイヌを理解することを否定する。この本はアイヌと他文化・他民族との交流を示すことによって「容易には要約することの不可能なアイヌという存在の解明の前触れとなること (p. 12)」を目的としているのだ。
 縄文文化からの伝統を引き継いできたアイヌ独自の文化は決して孤立し立ち止まっていたわけではなく、むしろ和人や他の北方民族の文化を吸収し発展させることによって変化し続けてきた。この本では「変わらなかった」部分と「変わった」部分を様々な視点から紹介している。
 アイヌ縄文時代からの伝統を引き継いできた民族であることは間違いなく、クマ祭りや入れ墨文化には縄文文化からの伝統を見ることができる。しかし、縄文から伝統が受け継がれているということは、何の変化もしていないことは意味するわけではない。アイヌは外部と盛んに交易し、その過程で他文化も受容した。オホーツク人や和人との交易のなかで、アイヌは自らのアイデンティティを意識するようになったという。山奥で太古からの生活をひっそりと守る民族としてのアイヌ像は明らかな誤りだったのである。
 交易の過程で文化を受容している以上、アイヌ独自の文化は決して孤立しているわけではない。コロポックル伝説は北千島アイヌの奇妙な習俗に関する他アイヌの噂が日本の中世説話の影響や他の北方民族の影響を受けながら発展したものであることが示される。また、独特の呪術は本州の陰陽道の影響下で発生したものであることが指摘される。さらに黄金というテーマを通して、奥州藤原氏アイヌの結びつきの可能性も著者は提示する。


 アイヌは単純で単一な生活圏に生きていたわけではなく、異民族に開かれた生活圏のなかを交易しながら生きてきた。極めて魅力的なダイナミズムがアイヌにはある。今までのアイヌに関する生半可な認識を打ち破られた意味で非常に心に残る一冊であった。

 

吉川英治『三国志』

吉川英治三国志(一)~(八)』(吉川英治歴史時代文庫)

 断片的には知っているが実際には読んだことがないという作品はかなり多い。『三国志』はそのような作品の一つであった。「水魚の交わり」「泣いて馬謖を斬る」「死せる孔明生ける仲達を走らす」などの故事成語はなんとなく知っているし、歴史としての三国時代もある程度の知識は持っている。言ってみれば外国の古代史であるにもかかわらず、異様なまでに日本で人気を誇る三国志。一度は何かしら通して読んでみようと考え、日本に浸透している所謂『吉川三国志』を手に取ってみることにした。
 さすがは人口に膾炙する作品だけあって読みやすく、分量は多いがスムーズに読む進めることができる。昭和の日本人から見たときに違和感が無いように丁寧に話を構成しているあたりが、吉川英治が大作家たる所以なのだろう。
 こういう作品を読んで人生の教訓を得るということが無い人間なので単なる読み物として面白く読んだ。登場人物たちの人生よりも、扱いづらい大河を扱う吉川英治の筆力と手際の良さに感嘆してしまう。講談を聞いているような気分になるのはテンポの付け方の上手さだろう。思い切って話をすっ飛ばしたり、かなり長めに引き延ばしたりする語りの感覚の鋭さを感じる。
 本家三国志と吉川三国志は構成が大きく違うという。序盤の桃園の誓いを長めにし、日本人が苦手そうな呪術パートは上手く省いて、孔明死後はバッサリとカット。なかなか大胆な編集ぶりである。では史書『三国志』や『三国志演義』、あるいは宮城谷昌光とくらべてみるか……とまではなっていないので読み比べは機会があればということになりそう。