座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

熊倉功夫『後水尾天皇』

熊倉功夫後水尾天皇』(中公文庫、2010年)
[『後水尾院』(朝日新聞社、1982年)→『後水尾天皇』(岩波同時代ライブラリー、1994年)を加筆修正した文庫版]
 
 織豊政権から江戸幕府確立まで移行期は、成り上がりの可能性を秘めた下剋上の時代から、社会変動の可能性を封じ身分秩序を形成する封建制度への移行期であった。茶の湯において既成の法を乗り越えて秩序を突き崩してきた千利休切腹に追い込まれたことを、著者は「下剋上の精神」凍結の冷酷な宣言だと位置づける。
 成り上がりの芽を摘まれた若者たちは「風俗」のなかに秩序を無視したアンバランスな「かぶき」を見出し、それは公家たちも同様であった。しかし、封建的な主従道徳を無視した「かぶき」の論理は権威を確立したい幕府にとっては危険思想であり徹底的に排除される。幕府をトップとする封建的秩序確立の流れのなかでは、「かぶき」の論理を持つ公家たちも危険な集団であり排除の対象であった。幕府による禁裏への介入の度合いは否が応でも強まっていくことになる。
 この時代精神の過渡期に生まれ即位したのが後水尾天皇である。逆らえぬ運命によって兄を押しのけ父に疎まれる形での即位となってしまった後水尾天皇の政治人生は恵まれたものではない。後水尾天皇の時代には禁裏への介入はあからさまなものであり、「禁中並公家諸法度」においては明確に現れ、徳川秀忠の娘である和子が入内し後水尾天皇の后になることによって幕府の権力構造に完全に取り込まれる。公家に許されるのは「学問稽古」だけとなり、天皇の役割は「芸能」のみとなる。紫衣事件を筆頭とする幕府による禁裏への露骨な介入と健康悪化は後水尾天皇を追い詰め、和子との娘である女一宮に譲位する。上皇となった後水尾院は仙洞御所を造営し、そこで寛永文化の花を開かせることになる。
 この時代においては公家文化、武家文化、町衆文化は隔絶したものではなかった。「寛永のサロン」の章では板倉屋敷と鹿苑寺が取り上げられる。京都所司代である板倉家の屋敷には公家の知識人である西洞院時慶、貞門派俳諧の開祖松永貞徳、貞徳の息子であり儒家の松永尺五、当時最大の文化人であった本阿弥光悦、『醒睡笑』の著者安楽庵策伝といった面々が集まっていた。後水尾院の近縁である鳳林和尚を中心にした鹿苑寺のサロンでは茶の湯が開かれ、そこには金森宗和、千宗旦小堀遠州といった一流の茶人が集まった。牢人出身の画家山本友我も鹿苑寺サロンの一員であった。寛永文化を支えたサロンには様々な身分の多種多様な人物が含まれたいたのだ。
 これらのサロンが鎖状に連なった輪の中心に後水尾院がいたというのが著者の考えである。後水尾院が開催する芸能の寄り合いには殿上人以外の地下も参加していた。後水尾院が池坊専好に主導させて行なわれた「寛永大立花」では、堂上も地下も僧侶も一緒になって立花の出来を競い合ったという。身分秩序が完全に確立するとともに、このようなサロンの土壌が失われ街と禁裏の間は完全に閉じることになる。身分秩序が閉じきってしまう直前に花開いたのが寛永文化と言っていいのかもしれない。
 「学問する上皇」の章では後水尾院の学問についても語られる。伝統を強く意識していた後水尾院は『当時年中行事』を著し、儀礼の復興を行った。また、後水尾院は詩歌に秀でていた。筆者は後水尾院が和歌において「道」ということばを多用していることに注目し、後水尾院にとっては「うたのみち」、思想内容よりも和歌としての表現が重要であったのではないかと指摘している。伝統的な儀礼や「うたのみち」に則ることが最早幕府には逆らえない後水尾院にとっての反骨心の現れだったのかもしれない。
 晩年の後水尾院が完成させたのが修学院離宮である。筆者は離宮のなかに数寄草庵の系譜と霊域のイメージを見出す。後水尾院には、自らの作った嵯峨院で晩年を過ごした嵯峨天皇への追慕があり、それゆえに修学院離宮の造成に執着したのだという。修学院離宮で静かに暮し長寿をまっとうするわけだが、自分の親類や友人にどんどん先立たれていく後水尾院の寂寥の感じを思うと少しばかり悲しくなる。
 単なる文化人としての後水尾院ではなく、葛藤と悲しみを背負いながら様々な人々と文化を作り上げた人物としての後水尾院が浮かび上がってくる大変面白い一冊であった。