座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

斎藤美奈子『文章読本さん江』

斎藤美奈子文章読本さん江』(筑摩書房、2002年)

 個人的には「文章読本」と言われる本を読むことは好きではない。なぜならそんなものを読んだところで文章を書くのがうまくなるとは到底思えないからであり、仮にうまくなったところでその文章が魅力的だとも思えないからである。

 いい文章とは何かを規定して読者に教える「文章読本」はいやが上にも権威的になりやすくなるだろう。長い間書かれ続けてきた「文章読本」が持つ男性的権威主義斎藤美奈子がユニークな切り口から論じていったのがこの本だ。

 斎藤は文章読本御三家(谷崎読本、三島読本、清水幾太郎『論文の書き方』)から新御三家本多勝一『日本語の作文技術』、丸谷才一文章読本』、井上ひさし『自家製 文章読本』)に容赦なく蹴りを入れながら歴史の歩みをたどっていく。

 彼らの「文章読本」は決してオリジナリティ溢れるものではなく、ある種のパターンに分類できるような権威主義に基づいたものであることが明らかになる。「五大心得」「三大禁忌」と文章読本特有のパターンを分類していくと、途端に「文章読本」はなんの意味もない存在に思えてくる。「外来語を使うな」「名文を読め」「いい文を書き写す」……まあ雁字搦めで教条的だ。さらに「文章読本」が持つ名文信仰と駄文差別を分析していくことで、内在する「印刷言語ー非印刷言語」「文学作品ー新聞記事ー素人作文」といった上下階層が明らかにされていく。

 このような権威的な階層を孕んだ「文章読本」が存在し続けているのは、人々が文章を「書く」ことに自信がないからであり、教育の問題に目を向けなければならないと斎藤はいう。「文章読本」の内実は具体的にはほとんど役に立たないイデオロギーの押し付けであるにもかかわらず決して消え去ることがない理由は、「文章読本」が学校教育の穴を埋める(ふりをする)からなのだ。

 「文章読本」という切り口から近代日本における文章の歴史について考えさせられる非常に面白い一冊だった。