座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

中村真一郎『頼山陽とその時代』

中村真一郎頼山陽とその時代』(中央公論社、1971年)

 

 戦後文学の旗手であった中村真一郎は妻の自殺によって酷い神経障害に陥った。神経を病んだ彼にはおだやかな意識統一が必要であり、刺激の少ない江戸漢詩や詩人伝を読むことは格好のリハビリテーションとなった。この読書の過程で彼は頼山陽と出会うこととなる。頼山陽もまた神経症に苦しんだ知識人であり、彼が自らを重ね合わせたのは自然の成り行きであった。

 この深い共感によって頼山陽は「私の内部に生き生きとした姿を現像させて(p.14)」くることになり、彼は山陽について様々な角度から分析していくことになる。

 頼山陽の伝記が書かれる第1部では、資料を基にしながらも想像力が駆使され山陽の姿が魅力的に現れる。頼山陽の人生に付き纏った悪評を引き起こした家出や遊興の理由が神経症ではないかと分析される。矛盾する山陽像をつなぎ合わせる軸としてこの神経症を設定し、想像力によって資料を上手くつなぎ合わせる手際には関心する。

 第2部以降は本人から周りの人々へと主眼が移る。父母、親族、友人、敵対者、弟子と紹介される範囲は極めて大きい。これらの人々との繋がりのなかで、多面的に頼山陽の姿が読者の前に現れる。個人的にはコレクターとしての汚い手段も厭わない頼山陽が好きである。弟子のコレクションを強奪しようとして一騒動起こしたり、お目当てのものをライバルに取られて悪態をついたりする姿には思わず笑ってしまう。

 山陽に関連する人物が次から次へと描かれることによって浮かび上がってくるのは、文化文政の知識人社会そのものである。様々なグループへと分けられた詩人たちは対立していたりつながっていたりと複雑なネットワークを形成している。テキスト量そのものの圧倒的な多さがネットワークの濃密さを体現しているとも言えよう。詩や文が引用されることによって各人の声を直接に知ることができることも作品の魅力を増している。

 平和な時代を生きた彼ら(彼女ら)の詩と生活は、封建的な縦の関係よりも文学グループや自由恋愛と言った横の関係を重視するような極めて自由な香りを伴っており、近代を先取りした(そして明治期には逆に失われた)都会的文化を確かに感じることができる。

 「薩長の「田舎漢」たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度大幅に後退していった (p. 81)」というような江戸後期と明治の比較は東京生まれの中村真一郎らしい。以下のような論評は面白いものだ。
 

 近世の漢詩人たちの感受性が、文化文政の頃にそこまで到達していて、それが次の世代の大沼枕山などによって、殆んどジャン・コクトーやマックス・ジャコブを思わせるところまで洗練されたというのは、江戸の都市文明の爛熟を示すものと言えるだろう。

 そして、日本人の詩的感受性は、明治維新の後、もう一度、島崎藤村などの素朴な浪漫主義にまで後退するのである。

 それは維新によって、江戸(東京)の知識階級が大きく入れかわり、地方の遅れた健全な感覚の青年たちが大挙上京して、新たなインテリゲンチャの層を形成したことの反映だろう。(p. 350)

 
 上記引用のような時折挿入されるフランス近代詩と江戸漢詩との重ね合わせはなかなか感覚が掴みにくいものの、世界文学に連なるジャンルとして江戸漢詩を感じることができる点が秀逸であるように感じる。

 第6部では頼山陽の作品について一つずつ論評を加えている。個人的には『日本楽府』が気になる。歴史上の事件を題材にしながら特殊な詩的空間を幻出させてしまうという奇妙な作品群は一部を読むだけでもなかなか魅力的だった。