座敷牢群島

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萩原朔太郎『詩の原理』

萩原朔太郎『詩の原理』(新潮文庫、1954年 青空文庫http://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/2843_26253.html


 詩とはなにかという疑問に真っ向から対峙して普遍的な答えを導こうという萩原朔太郎の詩論。内容論と形式論に分けて、明晰な言葉で詩を体系的に論じようという朔太郎の真摯な姿勢には敬服せざるをえない。朔太郎なりの詩的精神への深い思考、そして「新たな国語」創造への覚悟が現れている。西洋文化を表層だけ受け取らざるをえなかった近代日本人が苦しんだ病を乗り越えようとする闘いがありありとわかる。

 「現在しないものへの憧憬」という彼なりの詩的精神の定義には、詩論としての正確さを抜きにして共感を覚える。この詩論全体も、現在しない「新日本の詩」への憧憬を温熱される心情によって表出していることは言うまでもない。

 詩という概念を明晰に成立させるために論に現れる何重もの二項対立は、議論をわかりやすくすると同時に違和感も覚えさせる。二つの陣営に世界を分けていく過程は見事だが、そこまで割り切れるものなのか。論が図式的になっていることは朔太郎も自覚的だったのだろう。自由詩の行くすえを転換させるためには、力技を使ってでも詩人としての立ち位置を明確にすることが必要だったのかもしれない。

 以下に自分の便宜をかねて要約を載せておく。

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 朔太郎曰く、詩とは「詩的精神」が「詩の表現」を取ったものである。では、「詩的精神」とはなにか? まず、彼は芸術を主観的態度の芸術と客観的態度の芸術という二つの原則によって分ける。主観主義と客観主義は「現存(ザイン)するもの」への態度が明らかに異なるようだ。

要するに客観主義は、この現実する世界に於て、すべての「現存(ザイン)するもの」を認め、そこに生活の意義と満足とを見出みいだそうとするところの、レアリスチックな現実的人生観に立脚している。客観主義の哲学は、それ自ら現実主義レアリズムに外ならない。これに反して主観主義は、現実する世界に不満し、すべての「現存(ザイン)しないもの」を欲情する。

 朔太郎は後者の主観主義こそが詩的精神であり、主観の夢を呼び起こすものが「詩」であると考える。

かく空想や聯想の自由を有して、主観の夢を呼び起すすべてのものは、本質に於て皆「詩」と考えられる。反対に空想の自由がなく、夢が感じられないすべてのものは、本質に於ての散文であり、プロゼックのものと考えられる。[...]

 夢とは何だろうか? 夢とは「現在(ザイン)しないもの」へのあこがれであり、理智の因果によって法則されない、自由な世界への飛翔である。故に夢の世界は悟性の先験的範疇に属してないで、それとはちがった自由の理法、即ち「感性の意味」に属している。そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬である。されば此処ここに至って、始めて詩の何物たるかが分明して来た。詩とは何ぞや? 詩とは実に主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である。もし生活にイデヤを有し、かつ感情に於て世界を見れば、何物にもあれ、詩を感じさせない対象は一もない。逆にまた、かかる主観的精神に触れてくるすべてのものは、何物にもあれ、それ自体に於ての詩である。

 しかし、「現在(ザイン)しないものへの憧憬」を語れば、全て詩であるとするとどこまでも詩というジャンルが拡がっていってしまう。それゆえに「詩の表現」についての形式論も重要になってくる。
 詩の形式を「韻文」と規定することによって起きる様々な齟齬を踏まえ、彼は詩を「音律を本位とする表現」であるとする。

 そこで表現の形式には、音楽があり、美術があり、舞踊があり、演劇があり、文学があり、実に種々雑多であるけれども、これを本質に於ける態度の上から観察すれば、あらゆる一切の表現は、所詮しょせんして二つの様式にしかすぎないのである。即ちその一は「描写」であって、美術や小説がこれに属する。描写とは、物の「真実の像(すがた)」を写そうとする表現であり、対象への観照を主眼とするところの、知性の意味の表現である。然るに或る他の芸術、例えば音楽や、詩歌や、舞踊等は、物の「真実の像」を写そうとするのでなく、主として感情の意味を語ろうとする表現である故に、前のものとは根本的に差別される。この表現は「描写」でない。それは感情の意味を表象するのであるから、約言して言えば「情象」である。[...]
 詩とは何だろうか? 詩の表現に於ける定義は如何いかん? 詩は音楽と同じく、実に情象する芸術である。詩には「描写」ということは全くない。たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。即ち表現についてこれを言えば、詩とは主観に於ける意味を、言語の節ふしや、アクセントや、語感や、語情やの中に融して、具体的に表象しようとする芸術である。

 ここに至って「詩の表現」について彼の定義が示されることになる。彼にとって詩とは「現在(ザイン)しないもの」に対する感情を表象するところにあり、詩において重要なのは主観の感情によって温熱される心情(ハート)だと何度も強調している。

 当然、感情についても彼は論じている。いわゆる「感情」には女性的な「情緒」と男性的な「権力感情」という二つの別趣のものが包括されており、全ての詩はこの二つの感情のいずれかを発想していると彼は論じる。優雅で涙もろく女性的な「情緒」は抒情詩となり、気概に満ち高翔感的な興奮を伴う「権力感情」は叙事詩となるという。抒情詩は平民的なロマンチシズムを持つ(詩のなかの)主観派、叙事詩は貴族的なクラシズムを持つ(詩のなかの)客観派と言えるだろう。文芸の歴史はこの二つの対流と闘争であるという。
 では、日本における詩の代表的な形式である和歌と俳句はどうか? 彼は和歌はロマンティックで感傷的であり、俳句はレアリスティックで静観的であると分析する。俳句は世界に類を見ないほどレアリスティックの韻文でありながら、真の俳句は同時に当然ながらそこに「情象」を読み込んでいる。この枯淡趣味の詩はあまりに日本的特殊なものであるがゆえに、世界的に進出し得ない。和歌と俳句の二項対立を西洋の抒情詩と叙事詩の二項対立に当てはめて考えると、俳句は明らかに叙事詩ではない。
 このような西洋と日本の違いは日本語の平板さから生じたものだと彼は考えている。日本における詩の歴史は自由詩にはじまり中国との交通が開けてから七五音の定形律を取るに至ったと歴史を整理した彼は、この音の反復のみで構成される定形律の非形式的な自由主義を顧みて以下のように日本における詩の事情を語る。

かく日本の詩は、内容上にも形式上にも、西洋と全く反対なる、背中合せの特色によって発展して来た。そしてこの事情は、全く我々の国語に於ける、特殊な性質にもとづくのである。元来、言語に於ける感情的な表出は、主として語勢の強弱、はずみ、音調等のものによるのであって、アクセントと平仄とが、その主なる要素になっている。然るに日本の国語には、この肝腎かんじんなアクセントと平仄が殆どないため、音律的には極めて平板単調の言語にできている。[...]
 しかしこうした没音律の日本語にも、その平板的な調子の中に、或る種のユニックな美があるので、これが和歌等のものに於ける、優美な大和言葉の「調べ」になっている。けれどもこの特殊の美は、極めてなだらかな女性的な美である故ゆえに、或る種の抒情詩の表現には適するけれども、断じて叙事詩の表現には適合しない。叙事詩は男性的なものであるから、極めて強い語勢をもった、音律のきびきびした音律でなければ、到底表現が不可能である。アクセントもなく平仄もない、女性的優美の大和言葉は、いかにしても叙事詩の発想には適しない。これ実に日本に於て、昔から真の叙事詩が無い所以である。


 従来の日本語詩は特殊な美を表現できる反面、単調な語数律に基づくゆえに三十一文字以上に七五調を続けると単律のだるさを持つこととなる。では、日本語における長い詩を欲するにはどうすればよいか。彼はその答えを散文律の自由詩に求めるしかないという。
 では現状の自由詩が音律美を持つのかという問いに対し彼は自戒を込めつつ否と答える。いきなり言文一致によって芸術の世界に引きずり出された口語が粗野であることは仕方がなく詩の使用に耐えうる音律や美を持たないと彼は嘆く。
 しかし、音律美を放棄し言語の連想性に頼った「印象的散文」に靡くことを彼は強く非難する。いかに現状の口語に音律美が欠けていようとも、詩人たちは犠牲者となってこの口語に立ち向かわねばならないと彼は宣言する。「新しい国語」を創造することで詩も小説もありうるのであり、自由詩は「新しき散文」として肯定しうると彼は考える。
 最後に島国日本か? 世界日本か?と問う彼は、世界日本になるために俳句を捨てて叙事詩を取らねばならないと考える。つまり、日本の詩を発展させるには叙事詩的精神と抒情詩的精神の対立という西洋的構図が必要だという考えである。西洋文明そのものの本質と叙事詩的な精神を理解するためには、今までの価値観を廃棄し「文明の軌道を換え」て「先ず人間として、文明情操の根柢を作っておく」ことが必要なのだ。伝統の和歌や俳句ではなく自由詩を書くということは、美の完成ではなく創造なのである。
 
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