座敷牢群島

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小泉義之『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』

小泉義之『あたらしい狂気の歴史 精神病理の哲学』(2018年、青土社

 

 この本が追うのは「狂気」とは何かという問いではなく、「狂気」を取り巻いてきた精神医学と実践の歴史である。精神医学への筆者の強い疑念は、「はじめに」で直接的に表現されている。

 

若いころから私は、精神―心理系の学問・思想に強い疑念をいだいてきた。そして、それに寄生する学者には強い嫌悪感をいだいてきた。それらは、狂気の実情を捉えているとも思えなかったし、狂人や患者を搾取しているとしか思えなかった。そして、若いころから私は、精神―心理系の専門職と制度は廃絶されてしかるべきであると考えてきた。それらは権力の典型、支配の典型であり、打ち倒すべき敵であると見なしてきた。その考えはいまでも変わっていない。(p. 11)

 

 筆者は(反)精神医学、精神分析離人症といった分野の様々な言説を引用しながら精神医学の歴史を見返す。このことで、精神医学が自分たちの勝手に作った枠組みに人々を繰り込みながら治療対象として統治し続けようとしている歴史が示される。

 結局精神医学は「治療」をすることができない。最新の行動療法は単なる感情教育・道徳教育にすぎず、スペクトラム化は矯正可能者を不可能に(あるいは矯正不可能者を可能に)ずらす単なるゲームにすぎないではないかと筆者は喝破する。それゆえに「その類のゲームの外から、あるいはその裏をかいて、「正気に見えるが狂気を隠し持っている」人間がどこからともなく湧き出てくるはず (p. 153)」なのだ。

 もはや精神医学は専門知による治療ができず精神医学は「狂気」を幽閉する正当化事由をもたないにもかかわらず、狂気は実質的に幽閉されている。犯罪を犯した囚人として、あるいは社会から放逐された貧者としてだ。筆者は現代社会の秩序への気味悪さを感じた人間は、この幽閉された自由な狂気をあてにするしかないと言う。

  最終章で筆者は行動の狂気の問題を語り、Youtubeで顔を晒してヘイトスピーチをぶちかますレイシストフーコーのパレーシア概念を接続する。何を前にしても尻込みせず全てを臆せず語ることがパレーシアの語源であり、その意味で確かにレイシストはパレーシアを行使するパレーシアステースである。

 パレーシアは「僭主」に向けられ、憎悪や弾圧を覚悟しながら発せられる。民主主義の外に一つの倫理を打ち立てるための行動なのだ。それゆえにレイシストかつ愛国者たるパレーシアステースに対して闘争するときには、僭主と追従者たちにとってスキャンダラスな行動の狂気を示すような生存のスタイルが必要だと筆者は考えている。筆者が結語として述べている文を引く。

 

「真理のために死に至る生の実践」、「真理のための勇気を、いわば劇的ないし常軌を逸したやり方で極端化する」こと、「そこで命を失うに至るまで、あるいは他の人々の血を流させるに至るまで、真理へと向かい、真理を表明し、真理を輝かせる」こと、そして、それを僭主とその追従者たちへ向ける真理の行動として立ち上げること、しかも「生存」のスタイルとして行動の狂気の真理の証言として立ち上げること。一つのヘイトスピーチ=パレーシアに対抗するパレーシア、一つの行動の狂気に対抗する行動の狂気とは、そのようなことである。(p. 257)

  

 この本を通じて示されているのは思考のヒントにすぎないが、極めて刺激的な論考となっている。精神医学も、ヘイトスピーチ批判も、単なるポジショントークに終始しては何の意味もないのだろう。