座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

中西進『柿本人麻呂』


中西進柿本人麻呂』(講談社学術文庫、1991年) [単行本 筑摩書房、1970年]

 ある程度古典教育を受けた人であれば柿本人麻呂の名前を知らない人はいないだろう。とはいえ、何故人麻呂の和歌がここまで日本文化のなかで強い意味を持ち続けているのかはなかなかわからない。この本では謎の多い人麻呂の生涯よりも、人麻呂の詩が持つポエティクスに注目している。筆者はこのポエティクスを七つのテーマに章立てして探っていく。
 
 I. 讃仰
 II. 喪失
 III. 鎮魂
 IV. 追憶
 V. 別離
 VI. 孤独
 VII. 旅愁
 

 人麻呂が活躍した持統朝が持っている精神は過去への追憶を呼び起こすものであった。このような追憶の精神と人麻呂個人の資質は特徴的な「現在と交差する過去の意識」を産み出している。筆者は「現実に不在のもの、喪失しているものを歌うのは人麻呂の基本詩性だったのである (p.63)」と述べる。この詩性によって彼は荒れ果てた近江の都に草壁皇子を幻視するのである。

 このような不在への凝視は死者を前にしたときにも発揮される。人麻呂の鎮魂は単に死者を弔うわけではない。筆者は「死者という現実の背中の、故郷という非現実を歌うのが人麻呂であり、故郷喪失の中に鎮魂をなす詩人が人麻呂だったのである。(p.90)」と分析する。さらに、愛を歌うときにも不在が重要となる。愛を高めるものは別離であり、別離は当然愛する人の不在である。このような別離が人麻呂にとっては重要なテーマとなっている。愛するものを欠く嘆き、故郷を離れ嘆息する旅愁といった人麻呂特有のテーマもまた眼の前に無いものを求めようとしている。

 やはり筆者は最終的に人麻呂の詩の強靭さの基礎に不在を位置づける。

 不在なるものを現前において把握するという、この時空の超越に人麻呂詩の強靭な体質があって、何人もこの領域を侵すことができないところに、人麻呂の偉大さがあったのである。(p. 214)

 柿本人麻呂を一人の詩人として捉えて作品に通底するポエティクスに迫っていこうという姿勢はまさに文学研究という感じで大変おもしろく読んだが、古代の詩を現代の考えに当てはめて読んでしまっていることによって生じるむず痒さも否定できない。しかし文学としての万葉集柿本人麻呂を考えるには良い手がかりになった。

森銑三『渡辺崋山』

森銑三渡辺崋山』(中公文庫、1978年)[創元選書、1941年]

 中村真一郎頼山陽とその時代』を読んでから史伝熱が湧いてきたので、かつて古本屋で買って放置していた森銑三の人物評伝を読むことにした。まずは『渡辺崋山』である。2年ほど前に石川淳の同名評伝を読んだが、それよりも抑制のきいた筆致だと言えよう。とはいえ客観的な視座を保ちながらも、著者の渡辺崋山への敬愛が筆から滲み出ている。戦時中に書かれた文章なのだが決してナショナリズムの影は感じさせない。

 著者は渡辺崋山本人だけでなく一族や周辺人物の伝記を丁寧に紐解いていく。僅かな資料も漏らさないようにしながら、小さな事実を積み重ねていこうとする筆者の姿勢には敬服する。『全楽堂日録』や『ありやなしや』などの資料がパッチワークのように引用されている。

 また、著者は残されている日記類を丁寧に整理していく。病に臥せっている崋山、生まれて初めて海に釣りに出る崋山など実際に生きていた渡辺崋山が思い描ける。田原藩の重役として地元の民衆のために奮闘するエピソードはどちらかというと都会派のイメージが合っただけに意外だった。紀伊藩の難破船から流れた荷物を地元民が横領してしまうというなかなか間抜けな事件なのだが、このような俗事でも決して厭うことなく立ち向かったあたりは本当に清廉な人だったのだろう。

姫路市立美術館「連作の小宇宙」

 姫路駅から歩いて15分ほどのところに姫路市立美術館がある。庭園を囲むように建っている赤レンガ造りの建物はもともと陸軍兵器廠だったらしい。

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 今回「連作の小宇宙」という連作というあり方に焦点を当てた展覧会が催され、様々な連作を並べて展示している。

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 コンセプト自体が薄いので統一性はあまり感じないが、面白い連作が多く見ごたえはあった。

 ピカソの「ヘレナ・ルビンスタインの肖像」は化粧品会社の社長を描いた素描で24枚からなる。写実的な素描もあるが、作品のなかに複数の視点が現れたキュビズム的な構成の素描もある。写実的な素描からキュビズム的な作品が構成されていくようなピカソの実験がわかりやすく示されているようで興味深かった。

 大野麥風「大日本魚類画集」は様々な魚が見事な版画で刷られている。原画を描くために潜水艇にのり、200度も木版を重ねて刷ったという作品は極めて精緻で色鮮やかだ。人が少なかったのでじっくり見ていたのだが、なんだか水族館に来ているような気分にもなった。写実的ではありながら木版特有の柔らかみがあり、構図も図鑑とは違い自由なので飽きが来ない作品になっている。

吉川幸次郎『陶淵明伝』

 吉川幸次郎陶淵明伝』(ちくま学芸文庫、2008年)[新潮文庫、1958年]

 陶淵明をちゃんと読んでみようと思っているところでたまたまこの本を古本屋で見つけたので購入してみた。

 冒頭は陶淵明が自らに宛てた「自祭文」から始まる。この詩に書かれている自由人としてのあり様は単純なものではない。現実逃避しながらも現実を直視する、死を喜びながらも不安も綴る。このような矛盾した心が詩のなかに素直に現れるところに陶淵明の魅力があるのかもしれない。有名な「帰去来兮辞」は心に揺れの無い平静な詩に思えるけれども、実際には意外と感傷的な詩があることがわかる。

 陶淵明というと酒を愛する隠者のような印象があったが、意外にも乱世の政争ともかかわりがあるという。若い頃は世の中を正そうとしていたのかもしれないと思うと、できるだけ俗世との関わりを断とうとしていた後半生を見る目がかわってくる。

 陶淵明がよく使う自由に空を飛ぶ鳥について筆者は丁寧に分析を加える。本当に自由に空を飛び回る鳥たちもいれば孤独にねぐらを探す鳥もいる。淵明はこの鳥のどちらの姿にも自分を重ね合わせていたのかもしれない。

 単に酒を飲み山に籠もり続けた隠遁の楽観詩人というよりも、一旦は現実に向きあいながらも無力さに気が付きなんとか現実から離れようとした苦闘の詩人なのかもしれない。こんなことを思いながらゆっくり陶淵明全集を読んでいこうと思う。

牧角悦子『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 詩経・楚辞』

牧角悦子『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 詩経・楚辞』(角川ソフィア文庫、2012年)
 
 「詩経」は儒教の経典として解釈されてきた歴史が長い。筆者はこのような解釈から離れて、古代の人々の心を歌う詩として向かい合う姿勢をとる。

 詩経には恋を成就させ子供を産み育てるという素直な欲求が現れており、恋や出産を巡る古代的習俗が書き込まれている。例えば、桃やサンザシといった酸果樹は妊婦が好んで食べるものであり、それゆえに出産を守る幸福な果実として登場している。「桃夭」に現れる桃の木は特に呪力を持つ木であり、結婚にふさわしい。また、男女が送り合う芍薬は強壮剤であり、妊娠生子の願いが込められている。

 「碩人」では荘姜の美しさを表現するたとえに、「すくもむし」や「ふくべ」と言った物が使われている。変態する虫である「すくもむし」は再生の象徴し、種が密集している「ふくべ」は子宝を象徴するという。このような生命力や再生の象徴を詩のなかに書き込むことによって呪術的な霊力を内包させているのだという。

 古代人の願望や思いも現代人とつながるところがあり面白い。思わず「そうだよなあ」と思ってしまう一篇だけ引いてみる。
 
 山有漆   山に漆有り
 隰有栗   隰に栗有り
 子有酒食  子に酒食有らば
 何不日鼓瑟 何ぞ日に鼓瑟せざらん
 且以喜楽  且つ以て喜楽し
 且以永日  且つ以て日を永くせん
 宛其死矣  宛として其れ死せば
 他人入室  他人室に入らん
 
 山には漆、隰には栗
 酒も魚もあるならば、どうして鼓ち(たいこうち)瑟きて(ことひきて)日々たのしまないのか。
 そうやって楽しみ、そしてまた日永に暮らさないのか。
 そのうち死んでしまったら、他人が部屋に入ろうに。
 

 「楚辞」もまた悲運の忠臣である屈原作とされており、それゆえに儒教的文脈によって解釈されてきた。筆者はやはり楚辞も古い神話における魂の天界遊行を描いた詩として解釈する。神々への思慕や情愛が神話的ロマンとして展開していくさまはなかなかおもしろい。

 

小山慶太『 〈どんでん返し〉の科学史 蘇る錬金術、天動説、自然発生説』

小山慶太『 〈どんでん返し〉の科学史 蘇る錬金術、天動説、自然発生説』(中公新書、2018年)

 今となっては荒唐無稽な概念として扱われる錬金術、天動説、不可秤量物質、自然発生説などをキーとして科学史を描き出した一冊。物理学や電磁気学、生物学など様々な分野において、一度否定されたトピックは伏流のように流れており、学問の発達によって別の視点から再び湧き出てくる。例えば……天動説自体が否定されても天動説を支えていた概念は20世紀まで科学者のなかにしっかりと残っていて、折に触れて学説の中に顔を出す。熱をつかさどる不可秤量物質カロリックという概念は否定されたものの、不可秤量物質は存在していてむしろ宇宙創生時の粒子は質量などなかったことがわかってくる。このような概念の復活や蘇りが様々なトピックにおいて語られている。

 個人的に面白かったのは天動説を巡る話。カントが「コペルニクス的転回」と言ったことに引きづられてコペルニクスが大きな宇宙観の転換を起こしたように錯覚するが、宇宙に不動の中心があるという考えがなかなか変わらなかったという著者の指摘には思わず膝を打った。

 周転円とエカントによる複雑で煩瑣な辻褄合わせを行う必要があったとはいえ、天動説は実用に於いては何の問題もなく機能していた。コペルニクスが地動説を唱えたのは実用的な理由ではなく、むしろ美学的な理由であり、数学的な修正によって美しさを失った宇宙が耐え難かったのである。太陽を中心にすることで複雑な数学的修正を排除することができたということがコペルニクスの大きな発見であり、確かにこの時点では著者が言うように天動説と地動説は「同床異夢」だと言えよう。

 結局この不動の中心という考え方はニュートン力学においても採用されている。ニュートン力学的に物体が動いているか止まっているかを判定する際にはどうしても原点が必要だからだ。しかし、ニュートンはこのことに気がついていたために「絶対空間」なる概念を提唱するのだが、結局この概念も曖昧な辻褄合わせであり自らの力学と矛盾してしまうのである。

 不動の中心という考えを打ち破ったのはアインシュタインであった。彼はニュートン力学を無視し光速を不変とする天才的発想によって時間と空間の絶対性を排除した。しかし、アインシュタインもまた自分が作った方程式と自分が想定している静的宇宙の間に齟齬をきたし、結局辻褄合わせの「宇宙項」を導入することになる。結局ハッブルによって宇宙が膨張していることがわかりこの「宇宙項」は放棄される。

 結局に宇宙になんらかの不動の基準を設けるという天動説の根幹にある考え方は結局20世紀まで残り続けていたのであり、この考えを打ち破ったアインシュタインでさえも辻褄合わせの系譜のなかに位置づけられるのである。

 成功の系譜として紡ぎ出される科学史だが、辻褄合わせの歴史として眺めることによって歴史物語としての魅力は増す。人間が真実と向き合おうとするドラマとして科学史がより魅力的に感じられる一冊だった。

河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』

河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』(新潮文庫、1994年)

 

 「新人類の鬼譜」「運命の棋譜」「待ったをしたい棋譜」の三部からなる河口老師の将棋エッセイ集。

 今となっては想像できないが、羽生もなかなかタイトルが取れないと言われていた時期があった。逆に「準優勝男」と言われ続けていたら本当にタイトルを取れずに終わってしまったがのが森下。今年王将も名人も叡王も取りそこねた豊島はどちらになるのだろうか。また「花の55年組」の停滞は、その後の羽生世代の息の長さと比べると面白い。

 周りから受けが悪いうえに人付き合いの悪かった佐藤大五郎が周りから潰されてしまった話はいかにも将棋界らしい。「周りからどう思われるか」が大事だというのはどの社会でも通じる話ではあるが、将棋界ではあまりにも残酷にこの原理が作用していた。それゆえに感想戦や控室で読み筋の深さを他の棋士に見せつけておくことも重要なのだという。

 羽生に強かった日浦のエピソードも面白い。羽生に強いから「マングース」と呼ばれていたことは知っていたが、自分から「羽生にこんなに勝たれるのはおかしい」と言ってしまうタイプの棋士とは知らなかった。「嫌がらせをするぐらいの気持」という感じで指すのが秘訣だったとのこと。

 「打ったばかりの歩を捨てるなんて、そんな手は負けても指せません」と言って本当に負けてしまう高島弘光の負けっぷりも見事。記録に残らなくても、記憶に残るエピソードだ。羽生は「打ったばかりの歩を捨て」て豊島に勝って棋聖を防衛していたし、本当に強い人にはこの感覚はないのかもしれない。

 「待ったをしたい棋譜」ではプロ棋士がやってしまったポカが取り上げられる。自ら詰まされる手を指したのに相手がさらに間違えるといったやり合いは人間らしい。悪手が悪手を産むというのは人間の性であるようだ。