座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

吉川幸次郎『陶淵明伝』

 吉川幸次郎陶淵明伝』(ちくま学芸文庫、2008年)[新潮文庫、1958年]

 陶淵明をちゃんと読んでみようと思っているところでたまたまこの本を古本屋で見つけたので購入してみた。

 冒頭は陶淵明が自らに宛てた「自祭文」から始まる。この詩に書かれている自由人としてのあり様は単純なものではない。現実逃避しながらも現実を直視する、死を喜びながらも不安も綴る。このような矛盾した心が詩のなかに素直に現れるところに陶淵明の魅力があるのかもしれない。有名な「帰去来兮辞」は心に揺れの無い平静な詩に思えるけれども、実際には意外と感傷的な詩があることがわかる。

 陶淵明というと酒を愛する隠者のような印象があったが、意外にも乱世の政争ともかかわりがあるという。若い頃は世の中を正そうとしていたのかもしれないと思うと、できるだけ俗世との関わりを断とうとしていた後半生を見る目がかわってくる。

 陶淵明がよく使う自由に空を飛ぶ鳥について筆者は丁寧に分析を加える。本当に自由に空を飛び回る鳥たちもいれば孤独にねぐらを探す鳥もいる。淵明はこの鳥のどちらの姿にも自分を重ね合わせていたのかもしれない。

 単に酒を飲み山に籠もり続けた隠遁の楽観詩人というよりも、一旦は現実に向きあいながらも無力さに気が付きなんとか現実から離れようとした苦闘の詩人なのかもしれない。こんなことを思いながらゆっくり陶淵明全集を読んでいこうと思う。

牧角悦子『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 詩経・楚辞』

牧角悦子『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 詩経・楚辞』(角川ソフィア文庫、2012年)
 
 「詩経」は儒教の経典として解釈されてきた歴史が長い。筆者はこのような解釈から離れて、古代の人々の心を歌う詩として向かい合う姿勢をとる。

 詩経には恋を成就させ子供を産み育てるという素直な欲求が現れており、恋や出産を巡る古代的習俗が書き込まれている。例えば、桃やサンザシといった酸果樹は妊婦が好んで食べるものであり、それゆえに出産を守る幸福な果実として登場している。「桃夭」に現れる桃の木は特に呪力を持つ木であり、結婚にふさわしい。また、男女が送り合う芍薬は強壮剤であり、妊娠生子の願いが込められている。

 「碩人」では荘姜の美しさを表現するたとえに、「すくもむし」や「ふくべ」と言った物が使われている。変態する虫である「すくもむし」は再生の象徴し、種が密集している「ふくべ」は子宝を象徴するという。このような生命力や再生の象徴を詩のなかに書き込むことによって呪術的な霊力を内包させているのだという。

 古代人の願望や思いも現代人とつながるところがあり面白い。思わず「そうだよなあ」と思ってしまう一篇だけ引いてみる。
 
 山有漆   山に漆有り
 隰有栗   隰に栗有り
 子有酒食  子に酒食有らば
 何不日鼓瑟 何ぞ日に鼓瑟せざらん
 且以喜楽  且つ以て喜楽し
 且以永日  且つ以て日を永くせん
 宛其死矣  宛として其れ死せば
 他人入室  他人室に入らん
 
 山には漆、隰には栗
 酒も魚もあるならば、どうして鼓ち(たいこうち)瑟きて(ことひきて)日々たのしまないのか。
 そうやって楽しみ、そしてまた日永に暮らさないのか。
 そのうち死んでしまったら、他人が部屋に入ろうに。
 

 「楚辞」もまた悲運の忠臣である屈原作とされており、それゆえに儒教的文脈によって解釈されてきた。筆者はやはり楚辞も古い神話における魂の天界遊行を描いた詩として解釈する。神々への思慕や情愛が神話的ロマンとして展開していくさまはなかなかおもしろい。

 

小山慶太『 〈どんでん返し〉の科学史 蘇る錬金術、天動説、自然発生説』

小山慶太『 〈どんでん返し〉の科学史 蘇る錬金術、天動説、自然発生説』(中公新書、2018年)

 今となっては荒唐無稽な概念として扱われる錬金術、天動説、不可秤量物質、自然発生説などをキーとして科学史を描き出した一冊。物理学や電磁気学、生物学など様々な分野において、一度否定されたトピックは伏流のように流れており、学問の発達によって別の視点から再び湧き出てくる。例えば……天動説自体が否定されても天動説を支えていた概念は20世紀まで科学者のなかにしっかりと残っていて、折に触れて学説の中に顔を出す。熱をつかさどる不可秤量物質カロリックという概念は否定されたものの、不可秤量物質は存在していてむしろ宇宙創生時の粒子は質量などなかったことがわかってくる。このような概念の復活や蘇りが様々なトピックにおいて語られている。

 個人的に面白かったのは天動説を巡る話。カントが「コペルニクス的転回」と言ったことに引きづられてコペルニクスが大きな宇宙観の転換を起こしたように錯覚するが、宇宙に不動の中心があるという考えがなかなか変わらなかったという著者の指摘には思わず膝を打った。

 周転円とエカントによる複雑で煩瑣な辻褄合わせを行う必要があったとはいえ、天動説は実用に於いては何の問題もなく機能していた。コペルニクスが地動説を唱えたのは実用的な理由ではなく、むしろ美学的な理由であり、数学的な修正によって美しさを失った宇宙が耐え難かったのである。太陽を中心にすることで複雑な数学的修正を排除することができたということがコペルニクスの大きな発見であり、確かにこの時点では著者が言うように天動説と地動説は「同床異夢」だと言えよう。

 結局この不動の中心という考え方はニュートン力学においても採用されている。ニュートン力学的に物体が動いているか止まっているかを判定する際にはどうしても原点が必要だからだ。しかし、ニュートンはこのことに気がついていたために「絶対空間」なる概念を提唱するのだが、結局この概念も曖昧な辻褄合わせであり自らの力学と矛盾してしまうのである。

 不動の中心という考えを打ち破ったのはアインシュタインであった。彼はニュートン力学を無視し光速を不変とする天才的発想によって時間と空間の絶対性を排除した。しかし、アインシュタインもまた自分が作った方程式と自分が想定している静的宇宙の間に齟齬をきたし、結局辻褄合わせの「宇宙項」を導入することになる。結局ハッブルによって宇宙が膨張していることがわかりこの「宇宙項」は放棄される。

 結局に宇宙になんらかの不動の基準を設けるという天動説の根幹にある考え方は結局20世紀まで残り続けていたのであり、この考えを打ち破ったアインシュタインでさえも辻褄合わせの系譜のなかに位置づけられるのである。

 成功の系譜として紡ぎ出される科学史だが、辻褄合わせの歴史として眺めることによって歴史物語としての魅力は増す。人間が真実と向き合おうとするドラマとして科学史がより魅力的に感じられる一冊だった。

河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』

河口俊彦『一局の将棋 一回の人生』(新潮文庫、1994年)

 

 「新人類の鬼譜」「運命の棋譜」「待ったをしたい棋譜」の三部からなる河口老師の将棋エッセイ集。

 今となっては想像できないが、羽生もなかなかタイトルが取れないと言われていた時期があった。逆に「準優勝男」と言われ続けていたら本当にタイトルを取れずに終わってしまったがのが森下。今年王将も名人も叡王も取りそこねた豊島はどちらになるのだろうか。また「花の55年組」の停滞は、その後の羽生世代の息の長さと比べると面白い。

 周りから受けが悪いうえに人付き合いの悪かった佐藤大五郎が周りから潰されてしまった話はいかにも将棋界らしい。「周りからどう思われるか」が大事だというのはどの社会でも通じる話ではあるが、将棋界ではあまりにも残酷にこの原理が作用していた。それゆえに感想戦や控室で読み筋の深さを他の棋士に見せつけておくことも重要なのだという。

 羽生に強かった日浦のエピソードも面白い。羽生に強いから「マングース」と呼ばれていたことは知っていたが、自分から「羽生にこんなに勝たれるのはおかしい」と言ってしまうタイプの棋士とは知らなかった。「嫌がらせをするぐらいの気持」という感じで指すのが秘訣だったとのこと。

 「打ったばかりの歩を捨てるなんて、そんな手は負けても指せません」と言って本当に負けてしまう高島弘光の負けっぷりも見事。記録に残らなくても、記憶に残るエピソードだ。羽生は「打ったばかりの歩を捨て」て豊島に勝って棋聖を防衛していたし、本当に強い人にはこの感覚はないのかもしれない。

 「待ったをしたい棋譜」ではプロ棋士がやってしまったポカが取り上げられる。自ら詰まされる手を指したのに相手がさらに間違えるといったやり合いは人間らしい。悪手が悪手を産むというのは人間の性であるようだ。
 

パウル・ベッカー『西洋音楽史』

パウル・ベッカー(河上徹太郎訳)『西洋音楽史』(新潮文庫、1955年)

 1924年に行った1回30分×20回のラジオ講義を基にした西洋音楽史ギリシャ音楽から現代(1924年)までの西洋音楽を形式変化の歴史、「メタモルフォーゼ」の歴史として捉えている。私は音楽史についての知識を殆んど持たないのでよくわからないが、進化論的な歴史観を否定し「変化」を強調したところにこの本の意義があるのだろう。

 ベッカーなりの音楽の「観方」を提供することがこの講義の狙いであるという。「音楽形式の変遷に影響を及ぼす諸要素の観察を試みよう。(…)もっと大切なことは、何故此の音楽はこのように出来、あの音楽は全く異なって作られたか、ということを追究することにある。(p. 67)」

 時代精神の現れとして音楽が現れるのであり、音楽の理念や形式が時代によって変遷していったかということが彼にとっては重要である。それゆえにこの小品においては作曲家個人のエピソードや曲目紹介などは一切省かれる。彼によれば対位法に基づくポリフォニー音楽から和声音楽への変化は宗教改革に伴う文化的大変革の精神の賜であり、十八世紀の偉大な理想主義が抽象的な全体音楽を産み出したのだ。

 「この意味から云えば、バッハ、ヘンデルグルックハイドン、モオツァルト、ベートーヴェン等の十八世紀の音楽は、すべてこの同じ土壌の上に生まれたものである(p.160)」と言い切ってしまう歯切れの良さは、個々の才能をあまりにも簡単にまとめてしまっているように感じられる。音楽史として考えると偏狭さを感じてしまうが、音楽を題材にした精神史と考えればなかなか面白い評論と言えるだろう。

 河上徹太郎の訳がなかなかいいので、旧字体に抵抗ない人ならすらすら読めそうだ。

 

中村真一郎『頼山陽とその時代』

中村真一郎頼山陽とその時代』(中央公論社、1971年)

 

 戦後文学の旗手であった中村真一郎は妻の自殺によって酷い神経障害に陥った。神経を病んだ彼にはおだやかな意識統一が必要であり、刺激の少ない江戸漢詩や詩人伝を読むことは格好のリハビリテーションとなった。この読書の過程で彼は頼山陽と出会うこととなる。頼山陽もまた神経症に苦しんだ知識人であり、彼が自らを重ね合わせたのは自然の成り行きであった。

 この深い共感によって頼山陽は「私の内部に生き生きとした姿を現像させて(p.14)」くることになり、彼は山陽について様々な角度から分析していくことになる。

 頼山陽の伝記が書かれる第1部では、資料を基にしながらも想像力が駆使され山陽の姿が魅力的に現れる。頼山陽の人生に付き纏った悪評を引き起こした家出や遊興の理由が神経症ではないかと分析される。矛盾する山陽像をつなぎ合わせる軸としてこの神経症を設定し、想像力によって資料を上手くつなぎ合わせる手際には関心する。

 第2部以降は本人から周りの人々へと主眼が移る。父母、親族、友人、敵対者、弟子と紹介される範囲は極めて大きい。これらの人々との繋がりのなかで、多面的に頼山陽の姿が読者の前に現れる。個人的にはコレクターとしての汚い手段も厭わない頼山陽が好きである。弟子のコレクションを強奪しようとして一騒動起こしたり、お目当てのものをライバルに取られて悪態をついたりする姿には思わず笑ってしまう。

 山陽に関連する人物が次から次へと描かれることによって浮かび上がってくるのは、文化文政の知識人社会そのものである。様々なグループへと分けられた詩人たちは対立していたりつながっていたりと複雑なネットワークを形成している。テキスト量そのものの圧倒的な多さがネットワークの濃密さを体現しているとも言えよう。詩や文が引用されることによって各人の声を直接に知ることができることも作品の魅力を増している。

 平和な時代を生きた彼ら(彼女ら)の詩と生活は、封建的な縦の関係よりも文学グループや自由恋愛と言った横の関係を重視するような極めて自由な香りを伴っており、近代を先取りした(そして明治期には逆に失われた)都会的文化を確かに感じることができる。

 「薩長の「田舎漢」たちの遅れた男女関係の意識が、新しい支配階級のものとして、時代の道徳を指導するに至って、もう一度大幅に後退していった (p. 81)」というような江戸後期と明治の比較は東京生まれの中村真一郎らしい。以下のような論評は面白いものだ。
 

 近世の漢詩人たちの感受性が、文化文政の頃にそこまで到達していて、それが次の世代の大沼枕山などによって、殆んどジャン・コクトーやマックス・ジャコブを思わせるところまで洗練されたというのは、江戸の都市文明の爛熟を示すものと言えるだろう。

 そして、日本人の詩的感受性は、明治維新の後、もう一度、島崎藤村などの素朴な浪漫主義にまで後退するのである。

 それは維新によって、江戸(東京)の知識階級が大きく入れかわり、地方の遅れた健全な感覚の青年たちが大挙上京して、新たなインテリゲンチャの層を形成したことの反映だろう。(p. 350)

 
 上記引用のような時折挿入されるフランス近代詩と江戸漢詩との重ね合わせはなかなか感覚が掴みにくいものの、世界文学に連なるジャンルとして江戸漢詩を感じることができる点が秀逸であるように感じる。

 第6部では頼山陽の作品について一つずつ論評を加えている。個人的には『日本楽府』が気になる。歴史上の事件を題材にしながら特殊な詩的空間を幻出させてしまうという奇妙な作品群は一部を読むだけでもなかなか魅力的だった。
 

吉村昭『間宮林蔵』

吉村昭間宮林蔵』(講談社文庫、1987年)[単行本:講談社、1982年]

 

 択捉島シャナ会所へのロシア船襲撃から物語は始まる。僅かな人数のロシア人に怯え武士たちは無様に逃げ出す。しかし、そのなかで間宮林蔵は強く抵抗することを訴え、自分だけは抵抗しようと提案したことを証明するように証書を書くようにさえ要求する。

 迎合しようとしない意志の強さ、惰弱な人間と一緒にされたくないという成り上がり者の矜持がこのエピソードには示されている。この林蔵の性格が過酷な樺太調査を可能にしたと言えよう。

 林蔵は物凄い速度で歩き回り、厳しい寒さにも耐える。過酷な環境、山丹人の暴力、荒れた海などの苦難を乗り越えて樺太が半島ではなく島であることを明らかにする。周りからは不可能と思われていた樺太北部・東韃靼調査を成し遂げていく過程は吉村流リアリズムで見事に描かれる。

 (粗暴な山丹人の描写は迫力があるのだが、小説に好都合な身勝手なイメージとしてよく知らない北方民族を利用しているとも思えてしまう。)

 後半では林蔵の幕府の隠密としての活動が描かれる。間宮林蔵を軸にシーボルト事件やゴロヴニン事件、竹島事件など江戸時代後期の異国関連事件の群像が描き出されていると言ってもよい。

 シーボルト事件では、世間の誤解から密告者としての噂が広まり、白眼視されることになる。必要以上に群れることなく厳密にルールを守る人間は、どうしても世間から疎まれてしまうのかもしれない。鍛錬によって異様なまでに鍛えられた早足は、林蔵の成功を支えていると同時に、世間からの乖離を象徴しているように思えてしまう。

 北から南まで全国を歩き回った林蔵は、両親の死に目に立ち会えなかった。当然妻子もおらず、放置していた故郷の家は朽ち果ててしまう。幸福な家庭生活と孤独な成功が両立しないこの構図は、測図の師匠にあたる伊能忠敬にも共通する点である。この二人の成功と孤独が描かれていることもこの作品に陰影を与えている。