座敷牢群島

日頃触れ合った様々な文化についての備忘録となっております。

堀田善衛『ゴヤ』

堀田善衛ゴヤ I~IV』(集英社文庫、2010~2011)[単行本 新潮社 1974~77]


 この作品で描かれる偉大なる芸術家は世間一般で言うところの芸術家像とは乖離している。むしろ身分階級を駆け上がった成り上がり者であり、20人の子供を孕ませた種馬である。それゆえに彼は混迷と混乱に覆われたスペインのなかで、栄光を手にしつつ生き延びることができた。そんな俗っぽい面を持ちながら、現代まで命脈を保つ強靭な強度を持つ芸術作品を書き得たというのは不思議といえば不思議である。

 堀田善衛ゴヤを主役にして、一息に読み切ることが不可能とも言える長い評伝を書いた(書きえた)ことはこのゴヤの不可思議さに由来するのかもしれない。なぜゴヤの作品は魅力を持つのか……この事実を知るためにはゴヤを産み出したスペインというあり方を見る必要があり、この手段と目的は時に逆転し我々はゴヤを通じてスペインを見ることにもなる。

 スペインの大地は荒涼であり、ゴヤの故郷であるアラゴンのフエンデドートス村も当然ながら殺風景な寒村である。スペインを飛び回り、ゴヤの足跡と作品を訪ねて回っている堀田善衛はこの村を実際に訪れて乾ききった雰囲気を実感することになる。彼は決して資料で満足せずに現地へ向かうのだ。研究者ではなく決して学問的な手続きを踏んでいるわけではないかもしれないが、彼には研究者をさえ上回るような実証精神があった。作中にはゴヤの絵を見るために堀田がいかに動いたかが逐一記されており、その姿もエッセイとして面白い。

 すでに述べたように作品で浮かび上がってくるゴヤは決して高尚な思想家でもないし高潔な芸術家でもない。しかし彼の絵は最終的には時代精神をも超克した。彼が画帳に描きつけたデッサンたち、あるいは自室の壁に自分のためだけに描いた『黒い絵』は明らかに近代の胎動を先取りしている。堀田はこの先取りを単なる芸術論によって処理するのではない。小説と評伝をたゆたう文章は異端審問やイエズス会といった異常なものを孕むスペインがたどる不気味な変遷と、ゴヤ自身の階級を渡り歩いていく力強さや聾者になったことによる自己との内的対話を同時に描き出す。堀田は異様なスペインを強靭に歩み続けるゴヤの極端な人生のなかに近代性の懐胎を浮かび上がらせる。作品に思想を押し付けることはしないのだ。

 彼が折に触れてスペインとロシアを比較することにも触れておきたい。ヨーロッパの「遅れた周縁・辺境」としての類似論は、本人も言及するようにレーニンやトロツキーに触発されたものなのだろう。この文学的な形で示唆された類似は、今後文化史的にもう少し掘り下げられてもいいように感じる……

 とにかく長大な作品であり、休み休み読んでいた。おそらく途中で読むのが辛くなるかもしれないが断片的に読んでもそこまで面白さは損なわれない。むしろ『朝日ジャーナル』に4年程度連載していたものが土台なのだから、その読み方のほうが自然なのかもしれない。

 

祖父江慎、藤田重信、加島卓、鈴木広光 『文字のデザイン・書体の不思議』

祖父江慎、藤田重信、加島卓、鈴木広光 『文字のデザイン・書体の不思議』(左右社、神戸芸術工科大学レクチャーブックス2、2008年)

 神戸芸術工科大学の1年生に向けて行われた4回の特別講義の内容をまとめた一冊。
 
祖父江慎「ブックデザインとかなもじ書体のフシギ」
 本と文字が持つ関係について祖父江慎が独特の語り口で語っていく。まず、自分がデザインした独特のブックデザインの本たちを紹介していく。書体の組合せや組版の様々な可能性を掘り返していて面白い。そういえば先日読んだ『文章読本さん江』も祖父江慎デザインだったなあ。書体の歴史などについてもわかりやすく語っている。まさに公開講義1回目にふさわしいポップな感じ。

 

・藤田重信「フォントデザインの視点と細部」
 フォントデザインの現場で活躍し続ける筆者によるフォントデザインの基礎論。何種類かの明朝体を実際に見ながら、「視認性」や「可読性」など各フォントの持つ強みを示してくれる。フォントデザインは各文字を美しくデザインすること以上に、一定の方針に従って統一性をもたせることが重要なようだ。
 藤田が自らの作品である「筑紫明朝L」をその作成方針とともに紹介してくれるのだが、この部分は非常に面白い。「高い緊張感」をコンセプトに10ポイントで読みやすい文字を目指したこの書体は、逆にパソコンの画面上で拡大して見ると少しバランスがおかしく見える。僅かな角度や重心の違いが生み出すフォントデザインの違いは興味深い。また文字の均質さよりも筆の勢いの再現を重視する「筑紫書体」シリーズにおける右払い終筆の処理などは細かな考え方にびっくりする。


・加島卓「デザインを語ることは不可能なのか」
 よく言われるような「デザインを語るのは不可能だ」という言説の中心には、「デザインの本質」という語りえない空虚な中心が設定されていることを論じる。「デザインの本質」といったものがあるという前提を一度振りほどく必要があ、そのためにこの講演で彼はデザイナーによる自分語り(アイデンティティ形成)の歴史を語っている。まあ、そんなに面白くはない。


鈴木広光「制約から見えてくるもの……嵯峨本のタイポグラフィ
 江戸初期の活版印刷本である嵯峨本についての講演。嵯峨本『伊勢物語』は一字一字表現することが基本となるという制約がある活字にもかかわらず、続け書きされた連綿のものも表現されている。手書き文字の美しいあり方を表現するために『伊勢物語』はどのような技法を使っているのか? 日本語活字の難しさは本来続き書きで書かれる仮名を分割することにあった。活字の制約をどのように克服するか。連綿を表現する方法、空白を作り出す方法などは非常に興味深い。

斎藤美奈子『文章読本さん江』

斎藤美奈子文章読本さん江』(筑摩書房、2002年)

 個人的には「文章読本」と言われる本を読むことは好きではない。なぜならそんなものを読んだところで文章を書くのがうまくなるとは到底思えないからであり、仮にうまくなったところでその文章が魅力的だとも思えないからである。

 いい文章とは何かを規定して読者に教える「文章読本」はいやが上にも権威的になりやすくなるだろう。長い間書かれ続けてきた「文章読本」が持つ男性的権威主義斎藤美奈子がユニークな切り口から論じていったのがこの本だ。

 斎藤は文章読本御三家(谷崎読本、三島読本、清水幾太郎『論文の書き方』)から新御三家本多勝一『日本語の作文技術』、丸谷才一文章読本』、井上ひさし『自家製 文章読本』)に容赦なく蹴りを入れながら歴史の歩みをたどっていく。

 彼らの「文章読本」は決してオリジナリティ溢れるものではなく、ある種のパターンに分類できるような権威主義に基づいたものであることが明らかになる。「五大心得」「三大禁忌」と文章読本特有のパターンを分類していくと、途端に「文章読本」はなんの意味もない存在に思えてくる。「外来語を使うな」「名文を読め」「いい文を書き写す」……まあ雁字搦めで教条的だ。さらに「文章読本」が持つ名文信仰と駄文差別を分析していくことで、内在する「印刷言語ー非印刷言語」「文学作品ー新聞記事ー素人作文」といった上下階層が明らかにされていく。

 このような権威的な階層を孕んだ「文章読本」が存在し続けているのは、人々が文章を「書く」ことに自信がないからであり、教育の問題に目を向けなければならないと斎藤はいう。「文章読本」の内実は具体的にはほとんど役に立たないイデオロギーの押し付けであるにもかかわらず決して消え去ることがない理由は、「文章読本」が学校教育の穴を埋める(ふりをする)からなのだ。

 「文章読本」という切り口から近代日本における文章の歴史について考えさせられる非常に面白い一冊だった。

柏原宏紀『明治の技術官僚 近代日本を作った長州五傑』

柏原宏紀『明治の技術官僚 近代日本を作った長州五傑』(中公新書、2018年)
 

 長州五傑という名前はなんとなく聞いたことがあるが、伊藤博文井上馨以外の名前は出てこない。井上勝は聞けばなんとなくわかるのだが、山尾庸三と遠藤謹助については正直名前を聞いてもピンとこなかった。

 幕末期に洋行し専門技術を身につけてきた長州五傑を、身につけた専門性という観点から論じていくのがこの本の特徴である。それゆえに政治家として大活躍した伊藤博文井上馨よりも、専門性に特化していた他の三人に焦点が当てられる。私が名前を知らなかった山尾庸三と遠藤謹助についての貴重な評伝ともなっている。

 彼らの運命を分けたのは政治的資質であると筆者は言う。政治家として振る舞う資質を持っていた二人はうまく政争の場で立ち回ろうとする。しかし他の三人は自らのフィールドで自らの望む施策に取り組むだけであり、いわば技術官僚の走りであったといえるのだ。とはいえこの三人も伊藤や井上馨をうまく活かしながら、技術官僚として他の三人も自らの施策を実現させていたのである。現場の意見を無理やりゴリ押ししていく山尾庸三とその意見をなんとかうまく通そうとする伊藤博文の有り様はまさに専門家と政治家の典型のように思える。

 山尾庸三は工業、井上勝は鉄道、遠藤謹助は造幣で専門知識を生かしていった。彼らは政治家とは徐々に切り離されていく。このような政治家と官僚との切り離しの過程をたどっていけることも面白い。

 とはいえ、彼らの専門性は幕末洋行で学び取ったものであり、それゆえに後発の洋行組にその専門性は追い越されてしまう。技術の発展に技術官僚たちはついていかねばならない。筆者はこの発展を「専門性の階梯」と呼び、技術官僚たちがこの階梯をいかに登っていくかは現代においても課題であると指摘する。

 伝記としての面白さと政治史としての面白さが両立されており非常に面白く、現代につながる予算制度や鉄道網などの基礎が形成されていくさまも伺うことができる良書だった。

ギンザ・グラフィック・ギャラリー「ウィム・クロウエル グリッドに魅せられて」展

 「グリッドに魅せられて」というタイトルが示すように、ウィム・クロウエルは「グリッド」を厳密なルールとしてシステマチックにデザインを創造したデザイナーである。コンピューター時代の今でこそグリッドはデザインの基本だが、彼はコンピューター前の時代に厳密にグリッドを追求していた。

 会場で上映されていたインタビューは非常に印象的な内容であった。作品を依頼されたときに彼はまず「ピッチ」としてグリッドを定め、そのなかで「ゲーム」としてデザインを行うという。コミュニケーション手段としてデザインを捉えている彼は中立的なアプローチを最優先としており、自分の感性が介在する「デザイン」は制作過程の最後になってようやく現れるものだと語っている。

 実際に展示された展覧会のポスター類を見ていくと、極めてシンプルで情報が極めてわかりやすく示されていることに気がつく。しかし厳密にグリッドに則ってデザインされていることにもかかわらず、展覧会それぞれの個性も殺されていない。クロウエルはファン・アッベ市立美術館とアムステルダム市立美術館でポスター・図録のデザインをトータルに手がけていた。トータルデザインやグリッドといった現代デザインの基礎となるあり方の魁だったと言えるだろう。

 クロウエルのグリッドシステムはタイポグラフィにも及んでおり、直交グリッドで抽象的に作り上げられたNew Alphabetは不思議な魅力を持っている。New Alphabet製作時のデッサンも展示されており、制作過程を伺えて楽しい。カレンダーや切手、ロゴマークなどクロウエルの多岐にわたる仕事も展示されており、クロウエルの思考が持つ広がりを実感できる。

2018-19POG指名馬

ダービーデーの夜に恒例のPOGドラフト会議を行ったので、備忘録代わりに指名馬一覧を残そうと思います。

 

表ドラフト 10頭(23人×10頭)

1位 プリティカリーナの16 牡

2位 シアトルサンセットの16 牡

3位 サンデースマイルIIの16 牝

4位 タッチIIの16 牡

5位 エピセアロームの16 牝 

6位 ヴェルザンディの16 牡

7位 フリーティングスピリットの16 牡

8位 アーキオロジーの16 牡

9位 ミリオンセラーIIの16 牝

10位 R Heat Lightningの16 牡

 

ほどよく中位で取りそうな馬を並べてしまった感じ。冷静に振り返ると大物感ゼロだし今年も例年のごとく負けそうな気がする。1位とか7位には一発大きいのを期待してます、

 

裏ドラフト(表で指名漏れした馬から指名、12人×10頭)

1位 フレンチリヴィエラの16 牝

2位 ルルパンブルーの16 牡

3位 Her Smileの16 牡

4位 ストーミーウェザーの16 牡

5位 ヒシイサベルの16 牡

6位 アジアンミーティアの16 牡

7位  リープオブフェイスの16 牡

8位 ブルーミングアレーの16 牝

9位 ドリームオブジェニーの16 牝

10位 ヤマカツオーキッドの16 牡

 

漏れてる馬から素直にリスト上位を拾った。なんか表よりいいかも……?

京都国立博物館「池大雅 天衣無縫の旅の画家」

 GW前半に特に予定も無かったので京都まで行って池大雅の回顧展を見ることにした。時期が時期なので混んでいるかなと思ったが、そこまで混雑していなかったので助かった。

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 回顧展は85年ぶりだという。確かに同時代の画家に比べると扱いは地味だった気もする……逆に言えば貴重な機会だということだろう。神童と呼ばれた少年期の作品から円熟を迎えた晩年の作品まで代表作の多くが並んでいた。

 池大雅を巡る人々ゆかりの品も展示されていた。彼を見出したのは柳沢淇園であり、高芙蓉や韓天寿は終生の友であった。さらに弟子には木村蒹葭堂もいる。非常に才能豊かな面々に囲まれることで池大雅も才能を発揮したのだろう。高芙蓉の書はやはり素晴らしかった。

 文人画は 池大雅が手本とした大陸の南画や画譜も一緒に展示される。初期作品は線がしっかりとした作品が多い。特に『竹石図』『天産奇葩図巻』などは墨線が非常に力強く印象的である。画譜を参考にしながら徐々に独自の世界を産み出していった過程を感じることができた。

 指に直接墨をつけて絵を描く「指墨画」も多く並んでいた。本来パフォーマンスアートの側面が強いものだというが、池大雅の場合は作品の完成度も高いうえに画風の確立にも一役買っていたという。指で描いていると聞くと大胆で迫力があるように感じるが、むしろ柔らかさと繊細さが同居しているような作品が多い。実際に池大雅が指で大作を完成させる姿を見た人々はどんなに驚いたことだろう……

 円熟味を増してきた池大雅作品には独特の柔らかさがある。柔らかな筆墨、点描、大胆な粗密などの技術によって画面全体に不思議な光を感じることがきる。例えば『漁楽図』は水墨画だが短い線と点によって光あふれる漁村が表現される。解説でも書かれているが印象派へと思いを巡らせる人間は多いだろう。

 池大雅は画家であると同時に書家でもあったという。正直言って書にはあまり親しまないのだが、綺麗な字だなと感じた。『千字文』『天馬賦』などは字にキレを感じて見ていて楽しくなる。また、書と画が一体となって竹林の七賢を描いた『五君咏図』は池大雅らしさがよく出ているように感じた。賢人たちは柔らかに描かれて思わず魅入ってしまう。同じように書画を一体に配した作品には、扇面に瀟湘八景を描き七言絶句を書いた『東山清音帖』がある。この作品は題字と画が絶妙なバランスで配され、ゆったりとした自由な風景が展開する。流石に最晩年の作品である。

 図録は求めやすい値段だがボリューム多め。思わず購入してしまった。